程順則(ていじゅんそく)生家跡(那覇市)


程順則生家跡

コーポラス「オリオン」の入り口右に案内板がある


程順則(ていじゅんそく)とは、琉球王朝時代の政治家であり、教育者、文学者です。

1663年久米(クニンダ)村(現那覇市久米)で生まれました。程順則というのは中国名で、字は寵文(ちょうぶん)。虞氏外間筑登之實房(ぐううじほかまチクドゥンじつぼう)の次男でしたが、中国語の才能を買われ、22才の時、王府の命により、長く途絶えていた程家の跡を継ぎました。琉球王国の代表的な歴史書のひとつである 『中山世譜』を編纂して名高い蔡温らとともに琉球五偉人(注1)の一人といわれました。

政治家としては本島北部の名護地域の総地頭を務め「名護親方」を名乗り、「名護聖人」とも呼ばれました。文学者、教育者としても名高く、自ら優れた漢詩文を作り、1718年には琉球初めての学校「明倫堂」を設立しています。20代の頃から中国に渡ること5回、中国から持ち帰った「六諭衍義」(注2)には、人が人として守らなければならない六の教え(六諭)がわかりやすくまとめられており、寺子屋の教科書にもなりました。この本は薩摩を経て八代将軍吉宗に献上後、和訳され江戸時代中期から明治初めまで、庶民の教科書として全国に広く普及しました。

1734年死去、享年72。墓は辻原(つじばる)にありましたが、沖縄戦後の区画整理により、識名霊園内に移転されました。



程順則

程順則(案内板の写真をcopyしたもの)

(注1)『琉球の五偉人』(りゅうきゅうのごいじん)は、伊波普猷(いは ふゆう)と真境名安興(まじきな あんこう)による共著で1916年に発刊された。そのなかで紹介されている五偉人とは、次のとおり。

・麻平衡・儀間親方真常(唐名まへいこう:ぎま・うぇーかた・しんじょう)
中国から伝来したサツマイモの普及に尽力し、黒砂糖の製造法の習得と普及につとめる。尚寧王の日本行にも随行し、木綿織の技法を持ち帰った。琉球産業の恩人として知られ、那覇の世持神社に祀られる。

・向象賢・羽地按司朝秀(唐名しょう・しょうけん:はねじ・あじ・ちょうしゅう)
薩摩侵入後の琉球の政治方針を確定。政と祀を分離するなどの改革を行うほか、『中山世鑑』の編纂もおこなった。尚質王・尚貞王の摂政を勤め、王子位に昇る。琉球に「黄金の箍」を嵌めた人物。

・程順則・名護親方寵文(てい・じゅんそく:琉球名なぐうぇーかた・ちょうぶん)
篤学者。琉球における最初の学校明倫堂創設の建議や、中国より持ち帰り『六諭衍義』を頒布するが、これが日本にも広まり江戸・明治期の庶民教育の基盤となった。



・蔡温・具志頭親方文若(さいおん:大和名ぐしちゃん・うぇーかた・ぶんじゃく)
三司官としてさまざまな政治改革を行い、琉球の発展に寄与した。史書編纂事業にも力をそそぎ、親子二代にわたって『中山世譜』を編纂している。

・向有恒・宜湾親方朝保(唐名しょうゆうこう:ぎわんうけーかた・ちょうほ)
王朝時代末期の三司官として、琉球の近代化への扉を開いた。また私人としては和歌に親しみ、八田知紀に師事。当代きっての優れた歌人であった。

(注2)六諭
孝順父母 父母に孝順なれ(父母に孝行しなさい)
尊敬長上 長上を尊敬せよ(目上の人を尊敬しなさい)
和睦郷里 郷里は和睦せよ(郷里にうちとけなさい)
教訓子孫 子孫を教訓せよ(子孫を教え導きなさい)
各安生理 おのおの生理に安ぜよ(おのおの生業をあんじなさい)
母作非為 非為をなすなかれ(悪いことをしてはならない)

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 程順則(ていじゅんそく)生家跡 


  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo