平良真地(てーらまーじ)跡




現地の由緒書きにあった馬場の写真ですが、宜野湾馬場のもので、平良真地ではありません。きっと同じような景色だったのでしょう。


「平良真地跡」は、那覇市大名(おおな)町にある、かつての馬場跡です。琉球王国時代には、馬場の両側には松並木があり、「馬勝負」「馬揃い」が行われました。馬場のほぼ中央には、国王が見物する「御桟敷」があり、東端には、馬を水浴びさせる「馬浴せ小堀」がありました。琉球処分後は、首里城に置かれた沖縄神社の例祭日に奉納競馬が行われ、飾り立てた馬200頭余りが、守礼門側の記念運動場から平良真地まで行進し、多くの見物客が訪れたそうですが、大戦で中止となりました。

現地の由緒書きには、次の通り記されています(原文のまま)。
平良真地跡(テーラマージアト) 平良真地遺跡 那覇市首里大名町1丁目…馬の調教及び競馬場跡。琉球・沖縄における競馬は、『馬勝負(ンマスーブ)』・『馬揃い(ンマスリー)』といい、前後の足を同時に、左右同時に繰り出すのを特徴とした(『側対歩(アシクマスン)』)。また、馬具の華やかさ、乗り手の凛々しさなどが勝負の対象となった。 平良真地は、『平良馬追い(テーランマイー)』ともいい、識名真地(シキナマージ、馬場)とともに琉球王国の二大馬場であった。1695年、首里(しゅり)の北、西原間切平良村(にしはらまぎりたいらむら、現那覇市首里平良町)の西に地を定め、設置された。長さは約300mにも及ぶ直線で、幅は約15mあったという。馬場のほぼ中央には、国王が競馬を見物する『御桟敷(ウサンシチ)』があり、東端には、馬を水浴びさせる『馬浴せ小堀(ンマミシクムイ)』があった。また、馬場の両側は松並木であった。 平良真地は、1897年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)以降は、ほとんど使われなくなったが、1924年(大正13)、首里城に沖縄神社が置かれて以来、10月20日の神社例祭日に奉納競馬が行われた。この日は、沖縄本島中・南部から馬愛好家が守礼門(しゅれいもん)側の記念運動場(現首里城レストランセンター一帯)に集まり、色とりどりの馬具で飾り立てた馬に、勇ましい若者が乗り、200頭余りが2列に並んで、平良真地まで行進した。その行列は、例祭の一大イベントで、壮観であったという。また、馬場では、午前10時頃から午後4時頃まで競馬が行われ、多くの見物客が訪れたという。 1941年(昭和16)の日米開戦の影響により、平良真地での競馬は中止となり、周囲の松も、陣地構築のため切り倒され、馬場は掘り起こされて畑となった。沖縄戦後、一帯は住宅地となったが、幅広く、まっすぐに延びた道路が、往事の姿をとどめている。



沖縄では珍しい一直線の道が300mも続く
  碑
現地の由緒書き
地図


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 平良真地跡 平良交差点を北上し、平良入口の信号を西へ。大名児童館、大名公民館方面に進むと、直線の道路に出ます。直線の道があるだけで、周辺は住宅街となっており馬場の面影はありません。


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