首里市庁跡(しゅりしちょうあと)


ここは、那覇市と合併する前の首里市役所のあったところです。今は沖縄県立芸術大学の施設があるだけですので、往時の面影はありません。首里市の町名は、合併後も以前は首里であったことを残すため、首里桃原町、首里当蔵町などのように、町名の前に「首里」が付きます。

首里は琉球王国の王都でした。大和言葉では「しゅり」と読みますが、沖縄の方言では「すい」または「しゅい」といいます。首里城には、今では観光客が年間270万人も訪れて大変にぎやかですが、私が初めて沖縄に来たときは首里城も復元前で、見るところも日本三大がっかり名所(注)の「守礼門」しかありませんでしたので、何か寂しい街でした。

(注)日本三大がっかり名所…有名観光スポットだけれど行ってみたらがっかりする、いわゆる日本三大がっかり名所とは、札幌の時計台・高知のはりまや橋、そして沖縄の守礼門です。40年以上前のことですが、私も守礼門を見るまでは、南禅寺や知恩院の三門をイメージしていましたので、あまりに小さくてガッカリしました。記念撮影をするには背景に収まりので、お手頃の大きさかもしれませんが…。(^-^) ガッカリといえども、トップ3に選ばれるということは、有名な証拠ですね。



ありし日の首里市庁、現地の石碑の写真をcopyしたものです


現地の案内石碑には次のとおり記されています。
 首里市庁跡(シュリシチョウアト)
旧首里市の行政を担った役所跡。
琉球王国時代、王都として栄えた首里は、真和志平等(まわしのひら)、南風平等(はえのひら)、西平等(にしのひら)の「首里三平等(しゅりみひら)」と呼ばれる3つの行政区域の総称で、それぞれの平等に役所が置かれていた。
1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、王家の別邸であった大美御殿(ウフミウドゥン)(現首里高校敷地一部)に首里の仮役所が置かれ、三平等の役所は廃止された。1886年(明治19)頃、首里役所は、円覚寺(えんかくじ)の隣接地(現在地)に移転した。
1896年(明治29)、首里と那覇(なは)に区制がしかれ、1921年(大正10)5月20日、那覇区とともに、沖縄県で初めて市制が施行された。
この間、県庁所在地として政治・経済的に発展した那覇に対し、王国解体後、人口流出が続いた首里では、区域拡張が図られ、隣接する西原間切(にしはらまぎり)(現西原町)から平良(たいら)・石嶺(いしみね)・末吉村(すえよしむら)などを編入した。その後も、首里城など王国時代の建造物の国宝指定や、郷土博物館・市立図書館の設置など、首里市は、文教都市としての発展を図り、昭和10年代には、役所名も首里市庁と改めた。しかし、沖縄戦において、首里城地下に日本軍の司令部壕が置かれたため、壊滅的な被害を被った。
沖縄戦後の首里市の復興は、1945年(昭和20)12月14日の首里建設先発隊の派遣に始まり、翌年市役所も再開された(現首里中学校隣接地)。1950年(昭和25)2月、市役所は中城御殿(ナカグスクウドゥン)跡地南西隅に移転、1954年(昭和29)9月には、那覇市との合併により那覇市に編入され、市役所は、那覇市役所首里支所となった。1966年(昭和41)に首里支所は首里当蔵町(とうのくらちょう)(現首里公民館隣接地)へ移転し、2010年(平成22)12月、首里久場川町(くばがわちょう)へ移転した。
戦前の首里市庁跡地は、1950年に開学した琉球大学の体育館敷地となり、琉球大学移転後、1986年(昭和61)に開学した沖縄県立芸術大学付属図書館の敷地となった。
なお、那覇市との合併後、首里の名を残そうと、元の首里市域の町は、首里を冠した住所表示となった。




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