蔡温旧宅跡と蔡温の墓


戦争時の供出を免れ、現存する蔡温旧宅の石垣


私は小学生の頃、「郷土に輝く人々」という3巻セットの本を親に買ってもらった覚えがあります。自分の出身県の偉人を物語風に紹介した本でした。その本に紹介されているのは、歴史の教科書には必ず登場する偉人ばかりで、小学生の私でも知っている人物ばかりでした。もし、沖縄にも同じようなタイトルの本があったなら、蔡温は、必ず取り上げられる偉人のひとりでしょう。

今回ご紹介するのは、その蔡温の住居跡です。蔡温といえば、琉球王朝の政治家で国の指導者として、教育から農業、林業まで多岐に渡り貢献した人物としても有名で、琉球の五偉人(注1)にも挙げられています。1682年、那覇の久米村(現在の那覇市久米)に生まれました。大和の歴史なら江戸時代の初期に当たります。蔡氏志多伯(したはく)家十世・蔡鐸と正室・真呉瑞(まごぜい)との間に生まれ、童名は蒲戸でした。少しややこしいのですが、次男なのですが、正室との間に生まれた子としては長男でした。蔡温が17才を迎えるころ、取りつかれたように学問に目覚め20才までに論語をはじめ、多くの書物を読みました。その間、19才で冊封使との通訳に任命、21歳で漢文読書の教師。25才のときには講談師(久米村の師弟の教育者)にまでなりました。

また、琉球王府は、1732年、王府の中央官人から地方の下級役人、農民の道徳規範、生活心得として「御教条(ごきょうじょう)」を発布しましたが、その内容は、蔡温の考えによるものでした。これは、すべての役人は、国王の手足となって琉球国の統治をになう存在であり、農民の職分は、年貢の完納であることを説き、国家の最重要の職務が農耕である農本主義政策を推し進めました。この考えは、琉球社会全体に儒教倫理を鼓吹するうえで重要な役割を果たしました(この部分は「沖縄県の歴史」を要約)。

現地の案内板には次のとおり記されています(原文のまま)。文中の(注)は、サイトの管理人が加筆。
琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡。
蔡温は1682年に久米村(クニンダ)(現那覇市久米(くめ))で生まれた。沖縄名は具志頭親方文若(ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく)といい、蔡温は中国名であり、「澹園(たんえん)」と号した。蔡温の祖は、1392年に琉球に渡ってきた久米三十六姓の一人である。

蔡温は1708年に通事(つうじ)として中国に渡り、そこで儒学などを学びました。帰国後の1713年に、13歳で即位した尚敬(しょうけい)王の「国師(こくし)」(学問師匠)となったことから、首里赤平村(しゅりあかひらむら)に屋敷を賜りました。1728年に三司官(注2)に就任し、1753年に辞任するまで25年間務めました。この間、羽地大川(はねじおおかわ)の改修(1735年)や地方の山林視察など、自らが治水・治山を実践して、「山林真秘(さんりんしんぴ)」などの実学書を残しました。また、蔡温は、儒教の教えをまとめた『御教条(ごきょうじょう)』や王国の政治経済についての提言書『独物語(ひとりものがたり)』など多くの書物を残し、近世琉球王国を代表する政治家でした。1761年に享年80歳で死去した。
1729年に、尚敬王の王妃(サイトの管理人補注…王女の間違いかと思われます)が、蔡温の長男の翼(よく)に嫁ぐことになり、改めて邸宅(現在地)を賜った。敷地は600坪余あり、屋敷には門が2つあったという。沖縄戦時中、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のために供出された。戦後、道路拡張により敷地の一部は削られたが、蔡温が掘ったという井戸や当時の石垣はわずかに残されている。
旧宅の場所は ⇒ コチラから

(注1)『琉球の五偉人』(りゅうきゅうのごいじん)は、伊波普猷(いは ふゆう)と真境名安興(まじきな あんこう)による共著で1916年に発刊された。そのなかで紹介されている五偉人とは、次のとおり。

・麻平衡・儀間親方真常(唐名まへいこう:ぎま しんじょう)
中国から伝来したサツマイモの普及に尽力し、黒砂糖の製造法の習得と普及につとめる。尚寧王の日本行にも随行し、木綿織の技法を持ち帰った。琉球産業の恩人として知られ、那覇の世持神社に祀られる。

・向象賢・羽地按司朝秀(唐名しょう・しょうけん:はねじ ちょうしゅう)
薩摩侵入後の琉球の政治方針を確定。政と祀を分離するなどの改革を行うほか、『中山世鑑』の編纂もおこなった。尚質王・尚貞王の摂政を勤め、王子位に昇る。琉球に「黄金の箍」を嵌めた人物。

・程順則・名護親方寵文(てい・じゅんそく:琉球名なぐうぇーかた・ちょうぶん)
篤学者。琉球における最初の学校明倫堂創設の建議や、中国より持ち帰り『六諭衍義』を頒布するが、これが日本にも広まり江戸・明治期の庶民教育の基盤となった。

・蔡温・具志頭親方文若(さいおん:大和名ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく)
三司官としてさまざまな政治改革を行い、琉球の発展に寄与した。史書編纂事業にも力をそそぎ、親子二代にわたって『中山世譜』を編纂している。

・向有恒・宜湾親方朝保(唐名しょうゆうこう:ぎわん ちょうほ)
王朝時代末期の三司官として、琉球の近代化への扉を開いた。また私人としては和歌に親しみ、八田知紀に師事。当代きっての優れた歌人であった。

(注2)三司官(さんしかん)…琉球王国の宰相職のことで、首里王府の実質的な行政の最高責任者。

案内碑 (注3)
蔡温が掘ったといわれる井戸 大名公民館前の絵地図、この地図だけで行きつくのは難しい



(注3)言(げん)多く語(ご)失うは皆酒に因(よ)る  義を断ち情疎(うと)きは只(ただ)銭(ぜに)の為なり…『御教条[ごきょうじょう]』は、蔡温の考えに基づいたものですが、そのなかにも「酒の戒」・「金銭と正義」の項目が立てられ、「酒は酔うほど飲むと身命の痛み、家法の支障、風俗の妨害となる」、「金銭は日頃から義理正道の心がけがなければ、損得の欲が起こり世間の批判も省みず、口論し犯罪を犯すことにもなる」と書かれています。


那覇市の大名公民館の前にある町内絵地図を見ていたら、「蔡温の墓」が記されていました。地図に従って墓を探しましたが、どこにあるのか分からず探せませんでした。家に帰りネットで検索したら、民家の塀を乗り越えて…とありましたが、そのまま進むと団地の道路に出たとありましたので、後日、公民館のある所とは反対側の浦添市澤岻(たくし)側の道路から尚寧王の道をたどって探してみました。山側には墓地群が見えましたので、1本ずつ入ってみましたが、「宜湾朝保の墓」に入る道から数えて4本目までの道は、すべて崖に突き当たり行き止まりでした。4本目の行き止まりを少し戻って左折し、1本目を左折した曲道の角に階段状の道がありました。

上がってみるとそこには大きめの墓が並んでおりましたので、1基ずつ見て回りました。途中、左手にあった墓には、墓名碑もありませんでしたが、ネットで見た蔡温の墓の写真によく似た形の墓を見つけました。帰って見比べたら同じでしたので、お墓の写真として掲載します。道標も誰の墓なのか表示は一切ありませんので、確証はありません。死後350年も経っている割には新しそうですので、建て替えられたのかもしれません。また、琉球の五偉人のひとりというには、コンパクトな墓でした。

場所は、このあたりです ⇒蔡温の墓




蔡温の墓


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