オランダ屋敷跡(ウランダーヤシキアト)


オランダ屋敷

現地の案内板の写真をcopyしたものです

オランダ屋敷跡 現地の案内板
住宅地の突き当りに案内板があります。 現地の案内板


オランダ屋敷というと、江戸時代、長崎の出島にあったオランダ人の館を思い浮かべますが、ここは、那覇市安里にあるオランダ屋敷です。

現地の案内板には、次のとおり記されています。
日本メソジスト教会の外国人宣教師(せんきょうし)の屋敷跡。かつて沖縄では欧米人のことを「ウランダー」(オランダ人)と呼んだことから、その名が付いた。
沖縄におけるメソジスト教会の本格的な布教は、1892年(明治25)、久米に礼拝堂が開かれたことに始まる。1906年(明治39)に、アメリカ人ヘンリー・B・シュワルツ博士(1862 〜 1945年)一家が派遣され、布教・伝道を行った。翌年、シュワルツは安里(あさと)の高台に居を設け、那覇・首里の教会で活動するとともに、沖縄県立中学校(後の県立第一中学校、現首里高等学校)で英語を教えた。シュワルツの屋敷では、英語聖書研究会も開かれ、師範学校や中学校の生徒が出入りしたという。
1911年(明治44)、シュワルツ一家の離沖に伴い、後任にアメリカ人アール・R・ブール宣教師(1876 〜 1974年)夫妻が着任した。1913年(大正4)までのわずかな滞在であったが、離任後も沖縄との関係を持ち、泊外人墓地の修復や、護国寺にあるベッテルハイム記念碑建立に尽力した。また、シュワルツやブールは、伊波普猷(いはふゆう)ら沖縄の知識人とも交流があった。
オランダ屋敷は、その後メソジスト教会信者で小沢書店店主小沢朝蔵(おざわちょうぞう)、医師大久保孝三郎(おおくぼこうざぶろう)の管理に置かれたが、後に開南(かいなん)中学校の寄宿舎・農園として使用された。沖縄戦後、一帯は住宅地となった。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ オランダ屋敷跡 リュークスタワーの西にありますが、道路が直接つながっていませんので、県道251号線側から入ります。緩やかな坂を上がった突き当りにあります。


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