ヌージャヌモー跡


ヌージャヌモー跡


1609年3月25日、薩摩軍は約3000の兵とその兵を乗せた80隻余の軍船で琉球に攻め入ります。最初に上陸したのは、北部の古宇利島とも今帰仁の運天港ともいわれています。それから、琉球王国が無条件降伏したのは、4月4日のことです。狭い沖縄本島とはいえ、10日余りで首里城を明け渡して降伏してしまったのです。

薩摩軍は陸路と海路に別れましたが、陸路を進んだ部隊は、民家などに火を放ちながら進軍し、浦添城と龍福寺を焼き払って首里に接近しました。首里城から歩いても15分とかからない太平橋(たいへいきょう:現在の平良橋)で琉球軍と向かい合った薩摩軍は、当時の最新兵器である火縄銃で琉球軍に銃弾を浴びせ、これが城間鎖子親雲上盛増(ぐすくま さし ぺーちん せいぞう:元三司官の城間親方(うぇーかた)盛久の長男)に命中し、その場で首を切り取られてしまいました。これを見た琉球軍の兵士は戦意喪失して、我先きに首里城へと引き返して籠城し、その後は城を取り囲んだ薩摩軍と戦うことなく、城を明け渡してしまいました。

これを聞くと琉球軍は戦うことなく敗北したように思われますが、那覇港では謝名親方(じゃな うぇーかた)率いる琉球軍は大砲で海から攻めてきた薩摩軍を撃退し、兵の上陸を阻止したのをはじめ、首里城内にも徹底抗戦を図った武士たちがいました。それが浦添親方(うらそえ うぇーかた)の3人の息子、真大和、百千代、真かるでした。3人は、20名の同志と共に、城を出て識名のヌージャヌモーで薩摩軍と応戦し、全員討ち死にしたものの、加治木衆の武将・梅北照存坊兼次、小松彦九郎を討ち取りました。ここヌージャヌモーは、琉球軍が薩摩の指揮官クラスを討ち取った唯一の場所であったと思われるところです。

今は住宅地になってしまいましたので、その場所を示す痕跡も碑もありません。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ ヌージャヌモー跡 繁多川公園の西の端から沖縄工業高校方面に進み、まつしろ公園を過ぎた辺りと思われます。往時をしのばせるものは何もありませんので確証はありませんが、繁多川公民館マップの写真を頼りに探したところです。


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