西の海跡(にしのうみあと:那覇市)


西の海跡の現在



昔、昔、まだ琉球王国があったころ、那覇は島でした。「西の海跡」は、そのときの海岸線があったところです。

ここが最初に埋め立たられたのが、1733年だそうです。埋め立てた理由は宅地にするためだとか。その後、明治になってからも、たびたび埋め立てが行われ、竣工したのは大正11年で、現在のような形に区画整理が行われたのは終戦後のこと。詳しくは、エンゼルハイム西町の前にある看板に、次のとおり(原文のまま)記されています。

西村(にしむら)(現那覇市西)の西の海のこと。童謡「アカナー」にも歌われており、那覇の人々に親しまれた海辺であった。
かつて、那覇港先の三重城(ミーグスク)から、潮の崎(スーヌサチ)(現那覇市辻三文珠(さんもんじ)公園一帯)にかけては、U字形に湾入しており、「西の海」と呼ばれた。沿岸部は「下り(サガイ)」と呼ばれ、「牛町下り(ウシマチサガイ)」・「嘉手川下り(カデガーサガイ)」等の小字があった。1733年、那覇の人口増加に対応して、西の海の一部を埋め立てて、宅地にしたという(『球陽』尚敬王21年条)。
1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、本格的に西の海の埋立が行われ、1882年(明治15)、「湯屋の前(ユーワーヌメー)」と呼ばれる一帯約400坪が埋め立てられ、東本願寺(現真教寺(しんきょうじ))が建立された。1888年(明治21)には、第百四十七銀行支店長田代静之助(たしろせいのすけ)により、三重城に延びる突堤付近約4,000坪の埋立が計画され、後にこの一帯は、西新町(にししんまち)1 〜 2丁目となった。
1908年(明治41)、沖縄県により埋立事業が開始されたが、後に尚順(しょうじゅん)(最後の琉球国王尚泰(しょうたい)の四男)が引き継ぎ、1922年(大正11)に竣工した。一帯は、西新町3丁目となり、俗にミーガタ(新潟)と呼ばれ、1 〜 2丁目はフルガタ(古潟)と呼ばれた。当初、ミーガタはゴミ捨て場同然だったといわれるが、1915年(大正4)6月に大正劇場が新築された。同劇場では、1932年(昭和7)に玉城盛義(たまぐすくせいぎ)等が「真楽座(しんらくざ)」を結成し、新天地劇場の「珊瑚座(さんござ)」と人気を二分したという。
終戦後、同一帯は、更なる埋立と区画整理により、住宅地の他、倉庫街となっている。

下の写真(Google street)は西の海跡の現在の様子。上の説明文のように、近くには海運会社などの倉庫群もありますが、現在はビルが建ち並びマンションやビジネス街になっています。

西の海跡

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