真珠道(まだまみち)




真珠道の案内板、案内板内の写真は、昭和39年ごろに撮影されたと思われる石畳道


真珠(しんじゅ)の道と書いて「まだまみち」と読みます。真珠のように美しい道だったので、この名があります。真珠道とは、今からおよそ500年前の尚真王時代に整備された道路で、守礼門の近く(詳しい場所は永く不明だったが、一番下に平成30年9月に発見された首里城内の真珠道石畳の写真を《追記》した)を起点に、金城町石畳道、識名坂、真珠道にかかる橋、真玉橋(まだんばし)、尚巴志(しょうはし)が石火矢を放ったという伝説が残る石火矢橋(いしひやばし)、豊見城城下の東北側、小禄の丘の中腹を通り、那覇港の南側に位置する垣花(かきのはな)の屋良座森城(やらざむいぐしく)に至る約4キロの道のことです。



真珠道入口にある日本の道100選のオブジェ 人間道路会議賞受賞碑
「日本の道100選」の記念オブジェ(左)と「人間道路会議賞」受賞碑


今ではルートのはっきりしない場所もあるようですが、1522年に建立された「真玉湊碑文(まだまみなとひもん)」によると、真珠道の建設および真玉橋架橋は、一般の交通の利便をはかるほか、国土の防衛のために建設されたものとされています。つまり、有事の際は首里城から那覇港へと、素早く兵隊を送り込むために王府が整備した軍用道路でした。

その真珠道で、石畳が現存しているのは首里金城町で確認されていただけだったのですが、平成30年4月、道路改良工事の現場で、真珠道の一部と見られる石畳が発見されました。 見つかった石畳は約15メートルで、地元繁多川の住民の話しでは、石畳は沖縄戦による砲弾でところどころ破壊されたものの、昭和40年頃までは残っており、その後、道路がコンクリート舗装され、その下に石畳が残っていることは明らかになっていなかったそうです。

また、この道は、戦前までは住民の生活道路で、繁多川は豊富な水を利用して豆腐作りが盛んでした。リュウキュウマツ並木が続く通りを、豆腐を頭の上に乗せた女性たちが首里の市場に行き来したそうです。





平成30年4月、道路工事現場で発見された真珠道とみられる石畳の遺構

沖縄市出身の芥川賞作家の大城立裕(おおしろたつひろ)氏が、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の「朝薫五番」にあやかって創作した「組踊五番」の1つに「真珠道」があります。その内容をご紹介しましょう。

首里王府の士族の長男である倉田真刈(くらたまかる)は、豊見城(とみぐすく)の役所に勤めるうち、真珠村の美しい娘、コマツと恋仲になりました。2人は真珠村から首里に続く「真珠道」を通って、真刈の両親へ結婚の許しをもらいに向かいます。しかし身分が違うという理由で別れさせられてしまいました。

歳月が流れ、真珠村では、真珠道の川に架ける橋が何度工事をしても流されてしまい、村人たちが困っていました。そこへ新しい普請奉行として、出世をした真刈が着任します。工事について真刈が村長に相談すると、村長は巫女から神のお告げを得ようと進言します。

そこへ現れた巫女は、コマツでした。結婚を誓い合いそして別れた二人が、思いがけず再会となったのです。巫女となったコマツのお告げによると、七色の元結(もとゆい)[髪をまとめるひも]をした女を人柱にすれば、村は助かるとのこと。後に、コマツは七色の元結を締め、自ら犠牲になることを選びます。

村人は、コマツを人柱として神に捧げ、見事架かった橋を喜びます。しかしコマツの真意を分かっていた真刈は、コマツの心情を胸に、1人、真珠道を首里へ上ります。

首里王朝時代の士族の長男と村娘の悲しい恋の物語です。「国立劇場おきなわ」の公演紹介によると、男女の情愛を描きつつ、組踊に新たな風を送り込んだ新作として大好評を博し、再演が重ねられた作品だそうです。今年(平成30)の4月14日にも上演されたばかりです。

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《追記》首里城内に真珠道の石畳発見
「真珠道」の石畳が、道の起点となる那覇市首里の守礼門近くで発見されました。首里城内での真珠道の石畳の発見は初めてで、調査する県立埋蔵文化財センターは「起点から最も近い石畳。真珠道の道幅が確認できたという意味で大きな発見だ」と報道発表しました。
今回は、平成30年6月から実施した外路整備に伴う発掘調査で発見されたもので、石畳は幅約3.5メートル、長さは4〜5メートルで、両端に排水路の溝があります。これまでも守礼門近くや首里城内で発掘調査はされてきましたが、石畳は開発などで破壊されており、残っていないと思われていました。今回、発見した遺構は、調査、記録した後、埋め戻して現地保存すると新聞に出ていました。埋め戻されると見ることができなくなりますので、あわてて見学しに行きましたが、目隠しされたフェンスに囲まれており、近くで見ることができませんでした。入口の警備員に少しだけ見たいので入れてほしいとお願いしましたが、「文化財センターで許可をもらってください。私は観光客を誘導しているだけなので許可できる立場にありません」といわれましたので、目隠しの隙間から撮影してきました。下の写真が500年前の真珠道です。ご覧のように平面の石張り技術は稚拙です。基礎が部分的に沈んでしまったのかもしれませんが、この張り方では、人は歩きにくいですね(現在は埋め戻されてしまいましたので、見ることはできません。新しい石畳が敷かれています)。



真珠道

守礼門近くから発見された石畳の遺構。真珠道の起点となった部分です。

金城町の石畳 真珠道の石垣
金城町に残る石畳(左)と真珠道沿いに現存する石垣(繁多川)

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 平成30年4月の真珠道石畳発見場所 
平成30年9月の首里城内から真珠道の石畳発見場所は ⇒ コチラから

 

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