重修金城橋碑文(じゅうしゅう かなぐすくばし ひぶん)


重修金城橋碑文

旧重修金城橋碑文 金城橋
沖縄戦で破壊され台座だけになった碑 金城橋の親柱、擬宝子(ぎぼし)には宝玉を持つシーサー像


「金城橋」は琉球王国時代、首里と識名の間を流れる金城川(かなぐすくがーら、きんじょうがわ)に架けられた橋です。首里城から真玉道(まだまみち)を通って金城町石畳道を下ると金城橋に出ます。橋を渡ると識名方面に向かう識名坂(しちなんだびら)に繋がっています。

1677年頃、木製の橋から石橋に建て替えられましたが、1809年の大洪水で流され、翌年、元の場所から少し下流に再建されました。そのとき、修理の記録を1810年「重修金城橋碑」(じゅうしゅう かなぐすくばしひ)として橋を渡った繁多川側に建てました。その後、昭和20(1945)年の沖縄戦で、石碑は碑の下部と台座だけが残されましたが、昭和60(1985)年に橋の拡張工事があり、残された石碑は、その際に橋の北側(首里金城町側)に移設されました。現在の石碑は、残された碑や建立年の近い石碑を参考にして、平成17(2005) 年3月に復元されたものです。

以上の説明と一部重複しますが、現地の案内碑には、次のとおり記されています。

金城橋(かなぐすくばし)と識名平(しちなんだ) 那覇市繁多川4-21
金城橋は、琉球王国時代、首里・識名台地の間を流れる金城川に架けられた橋。橋の創建年は不明であるが、1677年に木橋から石橋に建て替えられた(「金城橋碑文」建立)。1809年の洪水により損壊したが、翌年、橋は元の位置から少し下流で再建され、橋の南側に「重修金城橋碑文」の碑が建立された。1945年(昭和20)の沖縄戦により、橋も碑も破壊された。現在残っている碑の残欠は、1985年(昭和60)、金城橋改修の際に、橋の北側に移設されたものである。
識名平は、金城橋から識名に至る坂のこと。呼称は方言の「しちなのひら」が転訛して「しちなんだ」となり、さらに坂の意味を加えて「しちなんだびら」ともいう。かつては、松並木の続く石畳の坂道であり、王家の別邸「識名園」に通じ、また、首里から島尻方面に至る幹線道路の一部でもあった。
この付近では、かつて金城川を遡って船の往来があった頃、宮古の人々が、海上安全を祈願して川岸の洞くつに魚の形を刻んだという伝承から「魚先原(いゆさちばる)」という地名や、川に身を投げた夫婦の怨念が人魂となって、坂の上から川岸まで漂うという「識名平の遺念火(いねんびー)」の伝承が残っている。
識名平の遺念火について、詳しくお知りになりたい方は ⇒ コチラから



金城橋 首里絵地図
道路の色の変わったところから識名坂 首里古地図(沖縄県立図書館デジタル書庫より)

首里絵地図

説明碑にあった首里那覇屏風図(部分)をcopy、道は真珠(まだま)道

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 重修金城橋碑文 

 

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