紙漉(かみすき)所跡





沖縄の歴史に琉球紙が登場するのは1694年です。大見武馮武(おおみたけひょうぶ)が、首里王府の命を受け、薩摩で杉原紙と百田紙(モモタガミ)の紙漉き技法を学び、城下の首里金城村で紙を漉いたといわれています。その後、沖縄の風土に適した「芭蕉紙」が作り出されましたが、明治時代に一度、途絶えてしまいました。しかし、重要無形技能保持者の安倍栄四郎氏が琉球紙再興をはかり、弟子の勝公彦氏が芭蕉紙を復興させました。






現地の由緒書きには、次のように記されています(原文のまま)。
「紙漉所跡(カミスキジョアト)…琉球王国時代から昭和初期にかけての紙漉所跡。宝口(たからぐち)の紙漉所ともいう。
琉球における紙漉の技術は、大見武憑武(おおみたけひょうぶ)が1686年、鹿児島へ赴き造紙法を修業。帰国後の1695年に首里金城(しゅりかなぐすく)村に宅地を賜り、杉原紙(すいばらがみ)・百田紙(ももたがみ)を漉いたのに始まる(金城の紙漉所)。1717年祖慶清寄(そけいせいき)・比嘉乗昌(ひがじょうしょう)らが芭蕉紙(ばしょうし)を始めて作り、翌年、王府の援助を受け首里山川(やまがわ)村に一宅を設けて紙漉所とした(山川の紙漉所)。以来、カジノキ・糸芭蕉(いとばしょう)・青雁皮(あおがんぴ)を原料に、色半紙・広紙・奉書紙・百田紙・藁紙なども作られた。
宝口の紙漉所は、1840年、首里儀保(ぎぼ)村の一角『宝口』に家屋を建てて製紙区域とし、製造が途絶えていた百田紙の製作を行わせたのに始まる。これにより宝口では百田紙、山川では芭蕉紙が作られたとされる。
紙漉は王府の役所『紙座(かみざ)』の管理のもと行われたが、1879年(明治12)の琉球処分の後も、この一帯では民間の手で紙漉が続けられた。 

この近くにある『手漉琉球紙工房 蕉紙菴(しょうしあん)』では、近くを流れる『宝口樋川』の豊富な水に支えられながら、現在も日々、貴重な芭蕉紙が作り続けられています。HP「クラフト館」によれば、芭蕉紙は沖縄の代表的な織物である芭蕉布と同じ材料である糸芭蕉を原料としていますが、この二つが原料を競合することはありませんでした。なぜなら、芭蕉紙は芭蕉布の繊維にならない部分を原料としたからだそうです。芭蕉紙は沖縄で生まれ、沖縄でのみ生きてきた独特の紙であるといえます。蕉紙菴で造られる紙は、しなやかで温かみがあり、沖縄ならではの味わいを醸し出しています。和紙を手にした瞬間、誰もが熟練された技の見事さに驚くことでしょう。自然を相手に一枚一枚丁寧に仕上げた和紙は、まさに人と風土が造り上げた芸術品といえると紹介されています。



道標 蕉紙菴
紙漉所跡の碑へは、この道標に従う 手漉琉球紙工房 蕉紙菴

地図をご覧になる方はコチラから ⇒紙漉所跡 ゆいレールの儀保駅から少し西に向かうと、南側に宝口樋川の石柱があります。ここを左折しすると橋の手前の右にあります。路地を進むと宝口樋川があります。なお、蕉紙菴は、宝口樋川の石柱から西に100メートルほど進み、ミネヤマ沖縄支店の看板を見て左に回ると、川に出る手前の左側にあります。宝口樋川を直進しても行くことが出来ますが、滑りやすいので足元にお気をつけ下さい。


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