亀川盛武(かめがわせいぶ)生家跡




首里儀保町の民家のブロック塀前に案内板が立っています。往時の面影を残すものは何もありません。亀川盛武は琉球の政治家で、明治5年(1872)まで三司官(注1)を務めましたが辞任。野に下り、明治政府による琉球処分に反対し、頑固党(注2)の頭領となって抵抗運動を組織した人です。反骨精神に溢れた闘志です。

案内板には次のとおり記されています(原文のまま)。(注)は管理人が注釈を書き加えました。

琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)期の三司官(さんしかん)であり、処分反対の指導者であった亀川盛武の生家跡。
亀川家は、毛氏豊見城殿内(もううじとみぐすくドゥンチ)の分家で、与那城間切(よなぐすくまぎり)の総地頭家(そうじとうけ(注3))である。
1871年に維新慶賀使(いしんけいがし)が上京。尚泰(しょうたい)を琉球藩王(はんおう)とする旨の命を受けて帰国したが、それが琉球処分への布石となった。このため、亀川らは慶賀使の伊江王子朝直(いえおうじちょうちょく)、宜湾親方朝保(ぎわんウェーカタちょうほ)らを激しく糾弾して、三司官の宜湾を辞職に追い込んだ。

1875年に、明治政府の処分官松田道之(まつだみちゆき)が来島した。処分へ向けた諸策が次々に打ち出される中、亀川は反日派(頑固党(がんことう))のリーダーとして、士族層(しぞくそう)の抵抗運動を指導した。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)の後も脱清(脱琉渡清(だつりゅうとしん))派を支援して、県政に対する旧士族層の非協力を画策するなど、抵抗の姿勢を崩さなかった。
琉球王国の崩壊という抗しがたい現実に、それでもなお抵抗せんとした亀川は、時代を象徴する人物の一人だったといえる。

(注1)三司官(さんしかん)…琉球王国の宰相職のことで、首里王府の実質的な行政の最高責任者です。
(注2)頑固党(がんことう)… 琉球処分時の親清国派の士族集団。琉球の日本統合に反対、琉球王府の維持・存続を主張しました。その中心人物が、亀川親方盛武でした。
(注3)総地頭(そうじとう)…琉球王国で親方の地位にある者が一間切を采地(領地)として賜った場合、総地頭と呼ばれました。惣地頭と表記することもあります。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 亀川盛武生家跡 ゆいレール儀保駅の近くです。儀保交差点を北に進み、2本目の道を東へ。曲がる角は「ライオンズマンション首里儀保駅」です。緩やかな坂を5〜60メートルほど上がった左側です。民家のブロック塀の前に立っています。


  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo