貝摺奉行所跡(カイズリブギョウショアト)




首里城からの帰路、県立芸大前を歩いていて、この案内碑を見つけました。何の予備知識もなく「貝摺奉行所跡」というユニークな名称を見てしまいましたので、失礼ながら、思わず笑ってしまいました。奉行所と言えば、普通は勘定奉行とか寺社奉行、町奉行と言った江戸時代の奉行を思い浮かべます。でなければ、秀吉時代の政務を担当した五奉行なのですが、この「貝摺」は、文字通り解釈すれば貝を摺るので、私は螺鈿を思い浮かべました。それに「奉行」の二文字がついているので貝細工職人の棟梁のことを奉行というのか?と思ったわけです。

琉球では、貝は貴重な交易品でした。琉球の貝塚時代には、イモガイを出荷していました。このイモガイは、九州で腕輪に加工され、関西さらに遠くは北海道にも運ばれました。北海道の有珠モシリ遺跡からイモガイ製の貝輪が発見されています。8世紀後半になるとヤコウガイが螺鈿の材料になり祭器などへの利用が始まります。このヤコウガイ製品は、琉球で製作されていたヤコウガイの貝匙(注1)だと考えられています。ヤコウガイは、琉球から、直接、大和に渡ったのか、中国を経由して大和にもたらされたのかは専門家にお尋ねしないと分かりませんが、琉球史のなかで、貝交易は明治時代になって貝摺奉行所が廃されるまで、途切れることなく続きました。

現地の案内板には、次のとおり記されています(原文のまま)。下記文中の(注)は、サイトの管理人が注釈。
王家御用、献上・贈答用などの漆器(しっき)製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡。相国寺(そうこくじ)跡(所在地不明)から1745年にこの地に移設された。
琉球王国では、15〜16世紀に馬・硫黄(いおう)のほか献上品として漆塗りの腰刀(こしがたな-鞘(さや))などを中国へもたらしており、早くから漆芸(しつげい)品を製作していた。


1612年に毛氏保栄茂親雲上盛良(もううじびんペーチンせいりょう(注2))が貝摺奉行(かいずりぶぎょう)に任じられ、貝摺師(かいずりし)・絵師(えし)・檜物師(ひものし)・磨物師(ときものし)・木地引(きじびき)などの職人を監督したといわれ、この時期にはすでに貝摺奉行所が組織されていたと思われる。奉行所では中国皇帝や日本の将軍・諸大名への献上用の漆器の形態・図案が決められたほか、数量及び材料などにかかる金銭の出納などの生産管理事務が行われた。
1879年(明治12)の沖縄県設置により貝摺奉行所は廃され、跡地には1886年(明治19)に沖縄師範学校が置かれた。
漆器は民間の手で製作されつづけ、1912年(明治45)には漆器産業組合も結成されるなど、本土への移出品、記念品としてもてはやされた。1945年(昭和20)の沖縄戦後には、米兵・本土観光客の土産品として復興し、1980年(昭和55)に通商産業大臣(当時)から伝統的工芸品として「琉球漆器」が指定を受けた。

現在は、県立沖縄芸術大学となっていますが、貝摺奉行所は、その昔、工芸品の図案制作、美術工芸品を仕上げる工房を兼ねた役所でしたので、芸術という共通性以外、往時の面影を残すものは何もありません。

(注1)貝匙(かいさじ)…ヤコウガイの殻を魚の形に加工した匙状の製品。七色に輝く真珠層が美しく、平安時代には天皇家や寺社の祭器として珍重されました。


(注2)毛氏保栄茂親雲上盛良…この名前の「保栄茂」の部分の読みは「びん」です。漢字だと3文字ですが、読みは2文字です。どうして「びん」と読むのかは諸説あります。南風原町に実際にある地名です。沖縄では、難解地名のトップクラスです。詳しくお知りになりたい方は ⇒ コチラから

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 貝摺奉行所跡 


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