中山門跡(ちゅうざんもんあと)


中山門跡


首里城と言えば守礼門が城の入り口の門として知られていますが、昔は同じくらいの大きさの門がもう一つありました。守礼門より西に、およそ500メートルのところにあった「中山門(ちゅうざんもん)」です。首里城に入る最初の門が中山門で、守礼門は二番目の門だったのです。どちらも扉はついていません。門なのに扉がないのは、世の中が平和に治まっている "しるし" であるという人がいましたが、建てられた1428年ころは、尚巴志(注1)が全島を統一する途上で、終盤期ではありますが、戦乱の最中ですから平和の世ではなかったと思われます。扉がないのは、名前は門でも中山門は別名「下の鳥居」と呼ばれていたように、鳥居の役目をしていましたので扉は付けられてなかったのだと思います。鳥居に門があってはおかしいですね。

中山門跡には、門があったころの面影を残すものは何もありません。いわれの記とされた石碑と染物店の壁に大きく「中山門跡趾」と彫られた木板があるだけです。首里城下の円覚寺の山門は復元計画がありますが、中山門の復元計画については、首里城の管理センターの方に伺いましたら、今のところは無いそうです。



石碑 案内碑



沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫より(部分)

現地の案内碑には、次のように記されています。

中山門は、王都首里の第一の坊門(ぼうもん)で、綾門大道(あやじょーふみち)の西端に建っていた。別に「下の綾門(しむぬあいじょー)」、「下の鳥居(しむにとぅい)」とも呼ばれた。

1428年の創建とされており、当初は建国門(けんこくもん)と呼ばれていた。中国の牌楼式(はいろうしき)の門で、1681年に板葺から瓦葺に改められた。中山門の名称は、尚巴志(しょうはし)王の冊封使柴山(さいざん:1425年来琉)が献じた「中山」の文字を、後に扁額(へんがく)に仕立てて掲げたことによる。1959年(昭和34)に復元された守礼門と同型同大である。

1879年(明治12)の沖縄県設置後、老朽化が進み、1908年(明治41)5月に払い下げられ、撤去された。



(注1)尚巴志(しょうはし)…琉球王国の第一尚氏の王、三山(中山、山北、山南)を統一し、15世紀に琉球王国を成立させた。

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