武徳殿跡(ぶとくでんあと)


武徳殿


昭和20年の武徳殿 武徳殿跡の碑
昭和20年5月ごろ、HP「沖縄戦場」よりお借りしました。
写っているのは、第22海兵連隊第1大隊で、この後、武徳殿を
大隊指揮所として南東にある城岳に向かったと説明があります。
武徳殿跡の石碑


武徳殿は全国各地にあります。もともとは平安時代に大内裏にあった殿舎の名前の一つでした。それに因んで、大日本武徳会の本部道場を武徳殿と名付けたのですが、全国各地の支部道場も本部に倣って、同じ名を付けたのです。

沖縄の武徳殿は昭和14年(1939)に武術の総本山として竣工しました。当時では珍しいコンクリート造りの構造で沖縄戦の戦禍にも、その基本部分は耐え抜くことが出来ました。戦後は改修されて警察の体育館として使用されましたが、老朽化のため平成元年(1989)には解体されました。その歴史的価値から保存する動きもありましたが、結局、移築不可能ということで見送られてしまいました。その跡地は、現在沖縄県議会棟となっています。

上の説明と一部、重複しますが、現地の碑には、次のとおり記されています。

大日本武徳会沖縄支部によって建てられた武道場跡。
大日本武徳会は、武道を奨励し、武徳の涵養(かんよう)を目的に、1895年(明治28)4月、京都で設立された。各府県に支部を置き、警察組織を通じて、武道の普及と振興を図った。
沖縄支部は、1933年(昭和8)12月に設立し、さらに、専用の演武場「武徳殿」の建設機運が高まると、支部役員・武道関係者・県下警察署が中心となり、寄付金を集め、建設資金とした。
建設地は、沖縄県庁構内警察練習所とされ、大城龍太郎(おおしろりゅうたろう)警察部技手の設計により、1938年(昭和13)6月に起工、翌年竣工した。
敷地は約330坪、神明入母屋(しんみょういりもや)造りの瓦葺きで、鉄筋コンクリート造り地下1階、地上2階建てであった。竣工後の6月18・19日には、武徳会会長林銑十郎(はやしせんじゅうろう)陸軍大将以下関係者を招き、開殿式や柔剣道・空手の古式型模範演技が行われ、記念大会も開かれた。
武徳殿は、武道大会や普及・指導の場所として、武道のメッカとされたが、戦時体制下では、軍需物資の保管庫に転用された。1944年(昭和19)10月10日の10・10空襲や、その後の地上戦では、一部損壊しただけで戦災を免れ、米軍より「Increate Japanese Style」(不滅の和風建築)と賞された。
米軍に接収された武徳殿は、1947年(昭和22)4月に将校クラブとして改修され、舞踏会も開かれた。1949年(昭和24)、沖縄民政府に譲渡され、行政庁舎として使用された。1959年(昭和34)からは、警察武道場となった。
1985年(昭和60)、沖縄県庁舎の新築、それに伴う武徳殿の取り壊し計画が発表されると、保存運動も起きたが、1989年(平成元)9月に解体された。跡地は沖縄県議会棟敷地の一部となった。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 武徳殿跡 沖縄県議会と那覇市役所の間の道路沿いにあります。現在は県議会の建物が建っていますので、往時をしのばせるものは何もありません。写真入りの石碑があるだけです。なお、Topの写真は、竣工当時と思われる武徳殿。沖縄都市モノレール情報(公式)よりお借りしました。


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