弁ヶ岳(べんがたけ)




《追記》平成30年6月18日、「弁之御嶽(びんぬうたき)」が国の史跡に指定されることが決まりました。

那覇市首里にある「弁ヶ岳」は、弁之御嶽ともいわれ、琉球王朝時代には国王自らの参拝が行われた拝所の一つで、丘全体が神聖な場所とされていました。道を挟んで東側の小高い杜になっている方が大嶽(うふだき)、西側の低い方が小嶽(くーだき)といわれ、ともに拝所です(「弁ヶ嶽由来」より)。那覇市では一番高いところにあります(石門の前の説明碑に東側が大嶽、西側が小嶽とありましたので、このページでも、そのまま掲載しましたが、何か違和感がありましたので、先日散歩に行ったときコンパスを持参して確認したところ、大嶽は道路を挟んで東側ではなく北側に、小嶽は南側にありました。パワースポットですのでコンパスが狂ったのかと思いましたが、コンパスは正常でした。碑文の間違いのようです)。

東西に横切る道路の北側にコンクリート製の石門があり、その右に道があります。腰高近くまである雑草を掻き分けていくと、あっという間に一等三角点のある弁が岳頂上に出ます。潅木があるので360度とはいえませんが、那覇市内が一望できます。写真を撮っていたら蚊の大群に襲われました。あわてて下りましたが、5箇所も刺されました。

弁ヶ岳と七福神の弁財天とは縁(ゆかり)があります。本土では弁財天は、福徳・諸芸能上達の神として、また見目麗しく柔和な神として信仰されていますが、琉球では悪い心を持つ者を罰する怖い神だそうです。17世紀のはじめに琉球にやってきた日本の僧、袋中(たいちゅう)は、弁財天について、こんな話を残しています。ある日、王の悪口を書いた落書きが見つかるのですが、犯人が分かりません。そこで、役人が弁ヶ岳に27日間、参詣したところ、犯人が自首してきました。弁ヶ岳は外来の神々が降臨する地であり、27日間というのは、弁財天が降臨する日数なので、犯人が見つかりますようにと弁財天に祈っていたものだそうです(「目からウロコの琉球沖縄史(上里隆史著)」より)。

なお、石門前の小さな碑には、弁ヶ岳と石門について、次のように由来が記されています。
『弁ヶ嶽』(原文のまゝ)
1956(昭和31年)12月16日
沖縄県史跡指定
「首里城の東方約1kmにあり、海抜は165.7mで、沖縄本島中南部では、最も高い峰の一つです。そのため、かつては航海の目標ともなりました。一般に「ビンヌウタキ」と呼ばれ、峰全体がご神体とされ、1945(昭和20)年の沖縄戦で、この地において激戦が展開されるまでは、琉球松などの大木が茂っていました。弁ヶ嶽は参詣道を挟んで、東側の小高い森になっている方が大嶽、西側の低い方が小嶽となっており、『琉球国由来記』(1713年)によれば、大嶽の神名は「玉ノミウデスデルカワノ御イベヅカサ」、小嶽は「天子」と記されています。王府時代、1・5・9月に国王が親ら訪れ、祭祀が行われました。また、沖縄戦で破壊消失した石門は、1519年に首里城歓会門前の園比屋武御嶽石門とともに築かれたといわれ、その構造や工法も似ていました。この石門は、1938(昭和13)年、国宝に指定されました。現在のコンクリートづくりの門は、1954(昭和29)年にハワイの「うるま一心会」からの寄付金を得て、首里鳥堀町民の奉仕によってつくられたものです。また、かつては石門の前に、拝殿と呼ばれる建物がありました。

また、石門のすぐ後にも敷き石の道がありましたので登ってみましたが、「木龍字具志久乙姫王の石碑」の先は行き止まりでした。



石門 頂上からの眺め
琉球王国時代の聖域だった弁之御嶽の大嶽石門 頂上からの眺め、塔はドコモタワー
石門内部 木龍字具志久乙姫王の石碑
石門の内側 木龍字具志久乙姫王の石碑、この先はロープが張ってあった
石柱 井泉
「史跡弁ヶ嶽」とある、横には1956/11/16とある 石門西にある井泉、水は豊富にあった
トーチカの跡 小嶽
壁に弾痕が残るトーチカ跡(石門の西) 尚円・察度・舜天・英祖・尚思紹の各王を祀る小嶽


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 弁ヶ岳 管理事務所前の駐車場は閉鎖されていますので、ほかには駐車スペースが見当たりません。ゆいレール首里駅から歩いても15分ほどです。


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