オランダ墓(名護市)

オランダ墓


オランダ墓は、運天港の対岸、屋我地(やがじ)島にあります。私が初めて行ったのは10年位前で、今帰仁から屋我地島に渡るワルミ大橋ができたばかりのころでした。ナビは奥武島経由の大回りの道を指示しましたが、国道505号線を走っていたら、近道の屋我地仲宗根線を教える道路標識があり、それに従いました。

オランダ墓といってもオランダ人のお墓ではなく、フランス人を葬ったお墓です。何故「オランダ墓」というのかというと、日本が鎖国をしていた時代に交易があったのは清国(中国)とオランダだけで、村人は青い目をした外国人なんてめったに見たことがなく、西洋人はみんな「ウランダー(オランダ人)」だったのでしょう。つまり西洋人の墓という意味だったのです。

墓ができた経緯は、 1846年6月6日、フランスの旗艦クレオパト−ル号、サビ−ヌ号、ビクト−リアス号の3隻が運天港に入港し、交易等の交渉を求めました。7月5日まで碇泊しましたが交渉を拒絶され、3隻は長崎に向けて出発しました。その約1ヶ月の間に2人の人が病気で亡くなり、ここに埋葬されました。この墓に眠るのは、乗組員のフランソワ・シャルル・ギタールと料理人の ジャーク・シャリュスというフランス人だったことが分かっています。この墓の管理は、王朝時代には今帰仁間切の運天が行なっていましたが、今帰仁村の役場が仲宗根に移ったので、屋我地運天原の人々が管理することになりました。

なお、現在置かれているのは墓は、レプリカ だそうです 。私が行ったのは、このサイトを作る前でしたので、撮影しませんでした。写真はいずれも名護市のHPからお借りしました。




Google地図をご覧になる方はコチラから ⇒ オランダ墓 ワルミ大橋を渡り屋我地島に入って古宇利島方面に向かうと、オランダ墓の大きな案内標識が出ています。 私が行ったときは、運天原港に車を止めました。その先は道も狭く、車は入れませんでした。 舗装もされていませんが、海辺の道を300メートルほど歩いて、墓のすぐ下まで行くことができました。


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