座喜味(ざきみ)城跡









座喜味城は、沖縄本島中部の西海岸、読谷村の中央にある城(グスク) です。標高127mの台地の上に築かれています。多くの城は琉球石灰岩の丘陵の上に築かれることが多いのですが、座喜味城は、地盤の弱い粘土質の土の上に築かれています。このため、城壁のカーブを大きくし、基礎部分は地中を掘り込んで石灰岩を敷き、また、石垣をぶ厚く積み強固に築かれました。上空から見ると城壁はいびつな星型(下の写真ご参照)をしています。





座喜味城跡の全景(空撮写真は珍しいので、雑誌「うない」からcopyさせていただきました)


この城は15世紀の始め頃、護佐丸(ごさまる)によって築城されました。一の郭と二の郭からなり、それぞれの郭にはアーチ石門が造られています。アーチの石がかみあう中央には、くさび石がはめられ沖縄に現存する最も古いアーチ門と言われています。城壁は独特の曲線を描いて積まれています。城壁に上ると残波岬が望め、晴れた日には遠く慶良間諸島も眺めることができる丘陵に立地し、遠く本部半島や伊江島も望めます(おきなわ物語などより)。

護佐丸とは、15世紀の琉球王国(中山)の按司(あじ=首長)で、後に中城城に移り城の増改築をしました。王朝統一の頃は建国の功臣だったのですが、晩年に護佐丸の乱で王府軍に攻められ自害したと伝えられています。実際に逆臣だったのか忠臣だったのか諸説あり、評価が分かれています。

この時代に活躍した、もう一人の按司に阿麻和利(あまわり)がいます。有名な戦いに阿麻和利の乱があります。王府史書によると、阿麻和利に対抗するため護佐丸が兵馬を整えたところ、これを阿麻和利が護佐丸に謀反の動きがあると王府に讒言しました。尚泰久王が阿麻和利を総大将に任じ、中城城を包囲すると、王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず、妻子とともに自害しました。仇敵の護佐丸を除いた阿麻和利は首里を急襲しますが、百度踏揚(ももとふみあがり=阿麻和利の妻、第一尚氏王統第六代国王・尚泰久の娘)が勝連城を脱出して王府に変を伝え、阿麻和利は王府軍によって滅ぼされたと伝えられています。ただし、諸説あり、肝高(きむたか…心豊か、気高いの意)の阿麻和利といわれるほど民衆から慕われた按司で、阿麻和利の謀反は仕組まれたものだったともいわれています。

座喜味城跡のいいところは、石積みの曲線が美しい。入場料が要らない。大きな戦禍を受けなかったので、保存状態がよい。石積みの城壁の上を歩くことができる(一部、不可のところはあります)。世界遺産のグスクで、城壁に上れるところは、他にはありません。

余談ですが、「グスク探訪ガイド(名嘉正八郎著)」によれば、与論島では、今でも子どもが泣くと「護佐丸がちゅんどー(護佐丸がやってくるぞー)」と言って泣く子を黙らせるそうです。それは、護佐丸が築城のための人夫を奄美諸島から有無を言わせず徴用したからだといわれています。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒座喜味城跡 小高い丘の上に歴史民族資料館と村立美術館があり、その奥(北)が座喜味城跡です。共用の無料駐車場があります。進入路は一方通行ですから、帰路、間違えないように。

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