吉屋(よしや)チルー歌碑(読谷村、嘉手納町)


五・七・五・七・七といえば短歌(和歌)ですが、八・八・八・六の合計三十音の歌とは何でしょうか?
本土の方で、すぐ琉歌(りゅうか)と分かる方は相当の沖縄通の方ですね。琉歌はウチナーグチ(沖縄言葉)で語られるので、本土の方には意味が分かりにくいところもあります。地元の新聞にも週に一回、「琉歌や肝むぐすり(るかやちむぐすい)」のコーナーで一般の人が詠んだ琉歌の入選作が掲載されておりますので、沖縄県内には広く愛好の方がおられるようです。

《ご参考》琉歌(りゅうか)とは、奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に伝承される叙情短詩形の歌謡である。和歌と同様にウタとも言われる。詠むための歌であると同時に謳うための歌でもある。奄美群島においては、主に島唄と呼称される(Wikipediaより)。

その琉歌の二大女性歌人といわれているのが、吉屋チルーと恩納(おんな)ナビーです。吉屋チルーは実在でしたが、恩納ナビーは、モデルとなった女性はいたかもしれませんが、想像上の人物といわれています。今回ご紹介するのは、17世紀の歌人で、読谷(よみたん)村と嘉手納(かでな)町の2カ所に歌碑がある吉屋チルーです。



読谷村歌碑 嘉手納町歌碑
読谷村の歌碑 嘉手納町の歌碑


吉屋チルー(1650年 - 1668年)は、実は遊女でした。「吉屋チル」「吉屋つる」あるいは、単に「よしや」「吉屋」とも表記されることもありました。 読谷村に生まれましたが、家が貧しく8歳で身売りされてしまいました。そのとき、村の境にある比謝(ひじゃ)橋を渡るときに詠んだ歌として知られる、次の琉歌が残されています。

      恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら

発音は、ウチナーグチでは、うらむふぃじゃばしや なさきねんふぃとぅぬ わみわたさとぅむてぃ かきてぃうちゃらと読み、意味は、恨めしい比謝(ひじゃ)橋は、お情けのない人が私を渡そうと思って架けておいたのでしょうか、というものです。

貧しさから両親によって売りに出されて、生まれ故郷を離れていく…。その悲しい気持ちを詠んだものです。とても8歳の子供の詠んだ歌とは思えませんので、後世の作として伝えられたものかもしれません(HP「読谷村の文化財」より)。

読谷村と嘉手納町の間を流れる「比謝川」に架かる、「比謝橋」を渡る那覇に向かって左側に読谷村が建てた歌碑が建っています。橋を渡り切ったところの信号の左には嘉手納町が建てた碑があります。

碑の解説には次のとおり記されています。 

吉屋チルー歌碑
この歌は、女流歌人吉屋チルー(一六五〇〜一六六八)の作品で、八歳に那覇仲島の遊郭に身売りされる際、詠んだといわれる。チルーが詠んだと思われる歌は二〇首余あるが、その作品のほとんどは抒情的である。
生地(管理人注:「生地」は「せいち」) などまだ謎の部分が多いが、『苔の下』を表した平敷屋朝敏をはじめ後世の人々は、チルーの生涯や作品に心を寄せ、歌劇、映画、民謡、歌曲の世界に登場させている。
恨めしい比謝橋は 情けのない人が 私を渡そうと思って かけたのでしょうか 
身売りという不条理を背負ったチルーのやり場のない気持ちが、比謝橋や橋をかけた人に向けられ、絶望的な悲しみが伝わってくる。
 平成十七年七月二日 読谷村文化協会



歌碑説明


伝承では、よしやは遊郭の客だった「仲里の按司(あじ = 管理人注: =琉球王朝時代の身分の称号、王家の分家、王子の長男など、いろいろな意味で使われる)」と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられず(または仲里の按司とは身分が違うために一緒になれなかったとか、仲里の按司にはすでに妻がいたなどとする伝承もあります)、悲嘆にくれたよしやは食を絶ち、18歳でこの世を去ったといいます。

なお、沖縄では遊女のことをジュリといいます。詳しくは ⇒ コチラから


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 吉屋チルー歌碑 国道58号線の比謝橋をはさんで読谷村側、嘉手納町側両方に建っています。読谷村側には「吉屋チルー歌碑」の標識が建っていますが、嘉手納町側には見当たりませんでした。読谷村側の駐車場に車を止めて徒歩で橋を渡るか、嘉手納町側(橋の南)の信号で、一旦、東に回り込み、駐車場に車を止めてから国道まで戻ってください。


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