内間御殿(うちまうどぅん)


東江御殿

東江御殿神殿の内観(神棚には尚円王、御手掛、根神(にーがん)、居神(いーがん)が祀られている)

第二尚氏王統(注1)の始祖である尚円王が、金丸(注2)と呼ばれていたころに、内間地頭に任ぜられました。西原町にある内間御殿は、そのときの金丸の住宅跡に建てられた神殿のことです。しかし、それは王であった尚円が亡くなった190年も後のことでした。



国道の案内板 内間御殿入口の絵地図
国道から入る角にある この案内表示を東へ 内間御殿入口の絵地図


鳥居と駐車場 伝国旗掲揚台
鳥居と駐車場、鳥居は、1931年、米へ移住した方の寄進です。 伝・国旗掲揚台


《鳥居と伝・国旗掲揚台》
上の写真:左は鳥居です。この前に車が数台置けます。鳥居は、昭和6年にアメリカに渡った嘉手苅出身の人が寄進したそうです。右は、伝・国旗掲揚台と案内板にありました。琉球王国の国旗とは、左三つ巴の尚王家の家紋のことでしょうか?



尚円王御後絵 サガリバナ
尚円王御後絵 サガリバナの古木


《尚円王御後絵とサガリバナ》
上の写真:左は玄関の案内板からcopyした尚円王御後絵です。当時の王の装束が中国風だったことを知ることができます。
右は樹齢470年と言われるサガリバナです。本島内で最も古い老木の一つで、町指定の天然記念物となっています。日本では、奄美大島以南に分布します。樹高6メートル、胸高周囲2メートル、枝張り6メートルあります。白っぽいピンク色の花が咲きます。ただし、夕方から咲き始め、明け方には散ってしまうので、昼間は花を見ることができません。開花期は夏です。私が行ったのは10月だったので、花はありませんでした。西原町のHPでは、サガリバナではなく、サワフジという名称になっています。

《東江御殿 あがりーうどぅん》
羽地朝秀(向象賢 注3)が摂政のとき、大殿内の屋敷に切妻造の茅葺の神殿(2間×3間)が建てられ、御神体として青磁の枕が安置されました。しかし、この枕は、1735年、賊に盗まれ、当時の尚敬王 自ら家臣を引き連れて捜索し、発見したといいます。それを契機に1736年、東江御殿の屋敷囲いも竹垣から石垣積みに改修され、本門(瓦葺の屋根を載せた門)と小門(正門のわきにある通用門)を設け、瓦屋根を葺き替えました。
1738年、尚敬王直筆の「致和」の扁額が東江御殿の本門の軒に掲げられ、また、尚敬王の撰文になる「先王旧宅碑記」の石碑が内庭に建てられました。しかし、その碑は沖縄戦で破壊されてしまいました。
戦後の1951年、東江御殿跡にトタン葺の神屋が再建され、1974年、そこはブロック造りの現在の神屋(2間×2間半)に改修されました。 なお、東江御殿の外観を石垣も入れて撮影しましたが、石垣は修復中でネットがかぶっていましたので、絵になりません。ですので、下の写真:左は西原町のHPからcopyしました。また、東江御殿の読み方は「あがりえうどぅん」だと思ったら「あがりーうどぅん」でした。



東江御殿 先王旧宅碑
現在は修復中ですが立派な石垣、後方は東江御殿 先王旧宅碑、碑の部分は破壊されましたが台座は残りました


《先王旧宅碑・台座》
上の写真:右は、東江御殿敷地内の先王旧宅碑と台座です。石碑は瓦葺きの堂宇内に厳重に保管されていました。それは第二尚氏王統の始祖である尚円王ゆかりの地、内間御殿を改修したときの竣工記念碑なのです。ここでいう先王とは、尚円王のことです。 この碑は、国家的聖地としての重要性を力説するために、内間御殿の敷地内に乾隆3年(1738年)6月12日に建立されたものですが、残念ながら先の大戦で破壊され、現在は石碑の一部分と台座だけを残すのみとなりました。



東江御殿 先王旧宅碑
戦火に合う前の東江御殿の神殿 昔はこんな覆屋の中に先王旧宅碑が建っていました


アガリーヌウジビルとアガリー家御火神 カニマルウカー
アガリーヌウジビル(右)とアガリー家御火神 カニマルウカー


《アガリーヌウジビル・アガリー家御火神、カニマルウカー》
上の写真:左の二つ並んでいる右はアガリーヌウジビルという霊石です。左隣りは東江家のヒヌカン、つまり火の神さまです。上の写真:右はカニマルウカーといって金丸が使っていたといわれる掘り抜き井戸です。今でも水がありました。



イーソーウスマシウカー イリーヌウジビル
イーソーウスマシウカー イリーヌウジビル


《イーソーウスマシウカー、イリーヌウジビル》
上の写真:左はイーソーウスマシウカーで、神女(ノロ)が衣装を洗ったといわれる掘抜き井戸です。右はイリーヌウジビルという霊石で、子授け、健康祈願が行われます。



《アガリーヌウカー、イリーヌウブガー》
アガリーヌウカーは、東江家の井戸で、嘉手刈集落のなかでも、最も古いと言われています。イリーヌウブガーは、産井(うぶがー)として利用されていました。狭い敷地内にあるのに、イリーヌウブガーはどこにあるのかも分からず、探すのに苦労しました。写真は撮りましたが、どちらも掲載は見合わせます。雑草に埋もれて保全されているとは言い難い状態だったので、とてもお見せできません。



西江御殿

西江御殿、エッツ、これが神殿?、掃除道具の置き場にしか見えません。

《西江御殿 いりーうどぅん》
1706年、東江御殿の北側に長さ3間、横2間半の茅葺の神殿(西江御殿)が西原間切の人たちによって造られました。1737年には西江御殿も かやぶき屋根から瓦葺に改められ、屋敷の周囲は竹垣が張り巡らされました。 1824年、再び東江御殿に安置されていた御神体の青磁の枕が盗まれたので、1835年師走、西江御殿に安置されていた青磁の小皿を改めて東江御殿の御神体として祀ることになりました。
戦後、西江御殿も木造トタン葺の神屋が再建されました。内間御殿の全体を見渡しても、東江御殿の外周の石垣だけは とても立派ですが、東江御殿、西江御殿ともにトタン屋根で、特に西江御殿は、上の写真のように掘っ立て小屋です。風が吹いたら倒れてしまいそうで、とても神殿とは思えません。理由は、昔の神殿の通り復元した建物ではないからだそうですが、国史跡に指定されているという割にはお粗末でした。あまりにも見すぼらしいので、写真を掲載するのをためらったほどです。この小屋の西隣りにあるコンクリートの平屋が西江御殿だと思って何枚も写真を撮りましたが、この小屋は何だか分かりませんでしたので1枚しか撮りませんでした。帰宅してから絵地図の場所を見比べていたら、この掘っ立て小屋が西江神殿だと分かりました。1枚だけでも写真を撮っておいてよかったです。国指定史跡に見合う建物にされることを期待してやみません。

以上、本文は西原町教育委員会のHPなどを参考に作成しました。

(注1) 第二尚氏王統…第一尚氏とか第二尚氏というのは、沖縄も日本の戦国時代と同様、本島は、北山、中山、南山の有力武将が群雄割拠していました。それを統一したのが第一尚氏の尚巴志(しょうはし)でした。第一尚氏は7代63年間(1406年- 1469年)続きましたが、第7代王・尚徳のとき、家臣の金丸のクーデターで滅ぼされました。7代続いた琉球最初の統一王朝を第一尚氏というのに対し、その第一尚氏を滅ぼして王位に就いた金丸が同じ尚氏を名乗ったので区別するため第二尚氏といいます。

(注2) 金丸…金丸は、1415年、伊平屋間切諸見村に農民の子として生まれましたといわれています。1438年、金丸24歳のとき村人たちから盗水の嫌疑をかけられ、妻や弟らと共に島を出て、国頭間切宜名真村を経て首里に上りました。ただし、この話は、後世の作り話との説もあります。首里に上った金丸は、越来(ごえく)王子(のちの尚秦久 注4)の家臣となり、1447年、尚秦久の推薦で家来赤頭(げらいあかがみ 最下級の役人)となり、38歳には黄冠(その当時の官位の最高位、後に最高位となる紫冠は、まだなかった)の位まで昇進し、1454年、内間領主に任ぜられました。1459年、45歳のとき、御物城御鎖側官の位に就きました。その後、金丸は尚秦久王のあとを継いだ第一尚氏7代王の尚徳と対立し、1468年、内間村に隠遁しました。翌年、クーデターで政権を手に入れ、第二尚氏の始祖・尚円王として王位に就きました。

(注3)羽地朝秀(はねじ ちょうしゅう)…1617〜1676 琉球王族の羽地御殿5世・朝泰の長男として生まれました。1650年、琉球最初の正史、「中山世鑑」を編纂。また、1666年には摂政の地位につき、数々の政治改革を断行しました。 唐名(琉球王国の王族・士族らが名乗った中国風の姓名)を、向象賢(しょう じょうけん)といいます。

(注4) 尚秦久…第一尚氏の第6代国王。尚巴志の五男で、越来間切を与えられたので越来王子と称しました。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 内間御殿
国道329号線の小那覇の信号の200メートルほど北に、国指定史跡「内間御殿」50m → とブロック塀に大きく書かれています。小那覇から来ると横断車専用信号を過ぎてすぐ右に入る道があります。右に見えてくる鳥居の南に駐車場があります。入場、駐車ともに無料です。



  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo