牧港(まちなと)テラブのガマ


牧港のガマ


牧港テラブのガマは、浦添市牧港の国道58号線近くにある琉球石灰岩の自然の洞窟で、中は昼間でもうす暗く、現在でも御嶽として参拝者が御願に訪れるところです。内部の広さは、およそ30平方メートルで、奥には拝所があり、浦添市の史跡に指定されています。

市のHPによると、保元の乱に破れ、島流しになった源為朝は、「運を天に任せて」今帰仁村(なきじんそん)運天港 (うんてんこう)に漂着し、そのあと南に下り、大里(おおさと)按司(あじ:首長)の妹と結婚し一児をもうけました。その子は尊敦(そんとん)と名付けられました。しかし、為朝は歳月が流れるうちに望郷の念にかられて琉球をはなれる決意をし、妻子を残して牧港港から出帆しました。残された妻子は、夫の帰りを待ちわびて、この洞穴で暮らしたということです。その地名が「待つ港」⇒ 「マチミナト」となり、現在の「牧港(まきみなと)」に転化したと言われています。また為朝の残した子、尊敦が後の琉球最初の王統の始祖、舜天王(しゅんてんおう)であるとも言われています(舜天の実在を証明する史料は残っていません。舜天は実在が疑われている伝説の王です (^-^)) 。戦前の牧港は、このテラブのガマ近くに開かれた集落でした。部落の年中行事では、テラブのガマの御願は欠かせない習慣だったそうです。

入口の説明板には、上記の説明と重複しますが、次のとおり記されています。
浦添市指定文化財 史跡 牧港テラブのガマ
牧港テラブのガマは、方言でティランガマと呼ばれる。琉球石灰岩の自然洞穴である。牧港の拝所として洞穴内が御嶽、洞穴の前庭が「琉球国由来記」にある牧港の殿(トゥン、祭祀場)になっている。洞穴の広さは約三十平方メートル、床には砂利が敷き詰められ天井には若干の鍾乳石がある。中央部の奥には拝壇があり、今でもときおり参拝者が訪れている。伝説によれば、乾道(けんどう)元年(1165)に今帰仁の運天港に漂着した源為朝(みなもとのためとも)は、大里按司(あじ)の妹を妻に迎え男子をもうけた。しかし為朝は浦添から出帆し帰郷、残された妻子はこの洞穴で為朝を待ちわびた。以来この地はマチナト(牧港)とよばれるようになったという。その子の名は尊敦(そんとん)といい、後の舜天(しゅんてん)王である。
昭和61年3月31日指定 浦添市教育委員会



石柱 ガマの内部

ガマの内部 説明板

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 牧港テラブのガマ 琉薬という会社の建物とパチンコ・サンシャイン牧港店の間の道路を入って右側にあります。


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