奥間家(おくまけ)





天女の図 奥間家
天女の図 奥間家拝所(うがんじゅ)


宜野湾市には、次のような「はごろも伝説」が残っています。

昔、奥間大親(おくまうふや)という人がいました。嫁のきてもない程の貧乏でした。 ある日のこと、畑仕事を終えて手足を洗おうと “森の川” に立ち寄ったところ、水浴びをしている一人の美女が見えました。物陰から様子をうかがっていると、木の枝に衣がかかっていました。
奥間はすばやく衣を草むらに隠し、女の前に姿を現しました。おどろいた女は急いで衣を取ろうとしましたが、そこにはあるはずの衣がありません。
女は「私は天女です。羽衣がなければ天に昇れない」と泣き崩れました。
奥間は女の身の上話などを聞き「それは、お困りだろう。私が探してあげるから、それまで私の家で休まれるがよい」というと女は感謝して奥間の家に世話になりました。奥間は、その羽衣を蔵の奥深くに隠しました。

それから10年、二人の間には一男一女が生まれました。さらに、何年か経ち、女の子が偶然に羽衣を見つけ、弟と遊びながら「天女の飛び衣は6つの柱の蔵にあり、舞衣は8つの柱の蔵にある。」と歌ったのです。
それを聞いた母親は大いに喜び、夫の留守中に羽衣を取り出して身につけ、たちまち天高く舞い上がりました。しかし、愛しい夫や二人の子どもの泣き声を聞くと、急には去りがたく空の上をぐるぐる飛び回り、ついに風にのって大空の彼方に飛び去りました。

というもので、沖縄に数多く残るはごろも伝説の一つ(注1)ですが、その残された男の子が後の察度王(さっとおう:注2)になります。この伝説になぞらえて、宜野湾市海浜公園では、毎年8月上旬に「はごろも祭り」を開催しています。

この伝説で天女の夫となったのが奥間大親(おくまうふや)で、察度王の父にあたる人物です。中城村の小さな集落、奥間で生まれ育ち、後に浦添間切の謝名村(現在の宜野湾市真志喜)に移り住んだと伝えられています。一説には裕福な家の出身ともいわれています

その奥間家の拝所(うがんじゅ)が、森川公園近くの私邸の一角にあります。平屋の建物の中に祀られているのは、右から真志喜大神(あまみきよの末裔)、真志喜五郎(源為朝が、後に琉球王となった舜天王(注3)の他にもうけた子の一人)、そして、奥間大親(察度王の父)、天願按司泰期(たいき:察度王の異母弟)です。

なお、奥間家の拝所の場所は私邸内にあり、奥間家を示す標識も表示もありません。宜野湾市の出している史跡の紹介にもありませんので、公にしておられないようです。そのため奥間家の地図は掲載いたしません。もし、探されても所有者の許可を得てからお入りください。

(注1)はごろも伝説…日本各地に存在する伝説。最古のはごろも伝説とされるものは、1200年前の滋賀県長浜市余呉湖を舞台としたもの。もっとも有名なのは静岡県清水市の三保の松原に伝わっています。森の川に伝わるものは、「球陽」などの歴史書を編纂した人物が大和の伝説を巧みに取り入れ、王の正統性を高めるために利用したものでしょう。このように全国津々浦々に伝わる天女伝説がありますが、琉球には、私が耳にしているだけでも宜野湾市の森の川(むいぬかー)のほかに、銘苅のシグルカー、与那原の親川(うぇーがー)、南風原町の御宿井(うすくがー)、西原町には烏帽子井(ゆぶしがー)があり、宮古島にもあるということを聞いたことがあります。
琉球では、美しいお母さんは神隠しに遭うことが多かったようです。その物語のウラは、王様や領主様が一目ぼれした女性を権力ずくで無理やり側室にしたのでしょう。お母さんは、家族から身を隠す前に側室となる条件として、夫や我が子の将来を王様にお願いしたのかもしれません。その条件とは、夫と男の子は士分に取り立てること。女の子は幸せな結婚をさせるため王宮へ参内させることだったのでしょう。そのため、県内各地には、お母さんは天女で、突然いなくなったのは天に上ったからという天女伝説がたくさ〜ん残っているのかもしれません。こんなことを言うと「キミには、夢がないネェ」とお叱りを受けるかもしれませんが…。
(注2)察度王(さっとおう)…1321年−1395年11月17日。生まれた家は極めて貧しかったのですが、当時強勢を誇っていた勝連按司の娘を娶ったことにより家運を起こしました。30歳のとき、浦添の英祖王統(注4)の西威王の病死のあとを引き継ぎ察度王統をたてます。その時、英祖王の金蔵を開け、全て武器や農具に必要な鉄を購入するために使ったといわれています。
(注3)舜天王(しゅんてんおう)…1166年−1237年。舜天王統の開祖とされる。琉球二番目の王統の祖とされています。最初の王統は天孫ですが、天帝が阿摩美久(あまみく)という神を下界に遣わし、琉球の島々を創らせたという話から始まりますので、まるで神話の世界。また、舜天は源為朝の子供だという絵空事なので、実在は疑わしいとおもわれます。
(注4)英祖王(えいそおう)…1229年?−1299年?。生誕時に母親が太陽を飲み込む夢を見たところから、「てぃだこ(太陽の子の意)」とも呼ばれました。琉球中部の王統の祖で、5代西威王の病死で90年続いた英祖王統は終焉します。


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