野國總管(のぐに そうかん)


野國總管宮


野國總管(のぐに そうかん)は、琉球に蕃薯 (ばんしょ:サツマイモ)をもたらしたことで知られる、琉球産業三大恩人(注1)のひとりです。

野國總管については、いつ生まれたのか、どのような暮しをしていたのか、どうして中国に渡ることが出来たのか、いつ亡くなったかなど、どのような人物であったのかも よく分かっていないそうですが、16世紀後半に生まれ、17世紀前半に死亡したといわれています。Wikipediaによれば、分かっているのは、北谷間切の野国村に百姓の子として生まれ育ち、後に中国に渡り1605年に甘藷(いも)を持ち帰った人物ということだけです。沖縄名は、与那覇(よなは)マチュー で、野國總管の野國は、生まれた地名。總管は、中国へ渡るための王府の官船の乗組員の一役職名だということです。

野國總官は中国から持ち帰った甘藷を自分の村で栽培し、近隣の村々に分け与えました。その後、甘藷は琉球中に広まり、琉球は飢饉から救われたことから、野國總官は、「うんむうふす(甘藷大主)」と呼ばれるようになったそうです。嘉手納マリーナ(米軍嘉手納基地内の保養施設:一般でも入れる)内に總管の墓や供養碑、野國野国由来記の碑が建っています。また、上の写真の「野國總官宮」は、蕃薯(甘藷)伝来350周年記念事業≠フ一環として村が野國總管公園内に、1955(昭和30)年に建立したものです。

以下は、伊波南哲篇の「沖縄の民話」を元にした創作民話です。

「亀の恩返し」

与那覇マチュー(後の野國總管)が首里池端の市をのぞいていると、商人が青海亀の首を切ろうとしていました。亀が大粒の涙を流しているのを見てかわいそうに思ったマチューは、有り金をはたいて亀を買い取りました。そして自分のカンザシ(琉球王府の役人は、金銀銅のカンザシの種類で階級を表した)を亀の甲羅に差して海に返してやりました。
それから数年後、マチューは進貢船の乗組員として中国に渡りました。農民たちが貧困や干ばつで苦しんでいるのを知っていたマチューは、帰りに蕃薯(ばんしょ:サツマイモ)の苗を持ち帰りました。
しかし、途中で大シケに遭い、船は大波を受けて沈没してしまいました。マチューは海に投げ出され、板につかまって流されていたときです。急に体が浮き上がるので、よく見ると亀がマチューを乗せているのでした。そして甲羅のカンザシを見て気が付きました。「お前はあのときの亀ではないか」 亀はマチューを琉球の海岸まで送り届けると、再び海に帰っていきました。別れ際に亀に礼を言うと、亀はそれが分かるのか、ポロポロとうれし涙を流しました。九死に一生を得て家に帰ると、家族、親戚はじめ村人が総出でマチューを出迎えました。「どうして私が帰ってくるのが分かったのだ」と聞くと、昨日、知らない男が荷物を持ってきて、マチューは、明日帰ってくると告げたというのです。荷物を見ると自分が海に投げ出されたときに船と一緒に沈んだはずの蕃薯の苗を入れたものでした。
マチューに命を助けられた亀が自分を助け、亀の仲間が荷物を運んでくれたのを知ったのでした。そして、すぐ蕃薯の苗を植えたところ、悪天候に左右されない蕃薯は土地によく根付いたことから、村の農民に広められ、これによって餓死など凶作による村人の災難を防ぐことができたのでした。また、儀間村地頭の儀間真常は、野国總管が蕃薯の苗を持ち帰ったことを聞きつけ、總管から栽培法を学び、以後、琉球各地に広めたということです。

嘉手納マリーナの入り口には 「甘藷発祥の地 野国いも宣言の碑」が立っています。 碑の説明は次のとおり記されています。

「甘藷発祥の地 野国いも宣言」
1605年、我が町の先達・野國総管によって中国福建省からもたらされた甘藷は、野國総管生誕の地・野國を発信基地として琉球の全ての村々へ、そして、薩摩を経て全国へと広まり、人々を飢えや飢饉から救い、全国民が等しくその恩恵に浴することになりました。今日、甘藷は未来を希求する健康食品として注目を浴びております。甘藷伝来400年の節目を迎える2005年、野國総管の偉業を奉祝する『野國総管甘藷伝来400年祭』が全町民の手により挙行されました。この慶賀を機に、我が国における甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、野國総管を称え、甘藷を『野國いも』の愛称で呼ぶことを高々と宣言し、ここに記念碑を建立します。
          2005年10月1日 野國総管甘藷伝来400年祭実行委員会 実行委員長 嘉手納町長 宮城篤実



野國総管像 野国いも宣言の碑
道の駅「かでな」前の像 
左手に持っているのは、さつまいも
野国いも宣言の碑


(注1)野國総管以外の琉球産業三大恩人
・蔡温(さいおん)…久米村(現在の那覇市久米)生まれ。 1682年9月25日−1761年12月29日 近世琉球王国の政治家、学者。林政,農政,土木治水,工芸などに功績をあげる。
・儀間 真常(ぎま しんじょう)…垣花の儀間村(現在の那覇市垣花)生まれ。1557年10月14日−1644年11月13日 第二尚氏王統琉球王国の士族、殖産家。サツマイモを広めたり、木綿栽培・織物の普及や製糖技術の導入をはかった。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 野國総管宮 地図は野國総管宮の場所。写真の野國総管像は、道の駅「かでな」前にあり、「野国いも宣言の碑」は、国道58号線沿いの嘉手納マリーナの入り口にあります。


  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo