野嵩(のだけ)石畳道は、琉球王朝の頃、首里と各間切(まぎり)を結ぶ首里王府の公道として整備された「宿道(しゅくみち)」の一部です。間切は現在の市町村で番所は役場に該当し、野嵩石畳道は宜野湾間切と中城間切を結ぶ宿道の途中にあります。
石畳築造の年代は不明ですが、宿道としての整備は、少なくとも18世紀後半と考えられています。
平石を敷き詰めた道は、表面の凸凹がなくなって光沢を見せるほどの状態で、数多くの人々が踏みしめた往時の姿をしのばせています。平たんな道に石畳が敷かれることはなく、石は坂道の滑り止めに利用されたといわれています。
この道は、別名スディバナビラ石畳道といわれているのは、「護佐丸・阿麻和利(あまわり)の乱」(1458)では阿麻和利の軍勢に敗れた護佐丸の妻子がこの石畳道を通って逃げたとされ、追手から放たれた矢が妻の袖を引き裂いたことから、「袖離れ坂(スディバナビラ)」とも呼ばれるようになったそうです。
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