黄金宮(くがになー)


黄金宮の祠、どこにもGoldはありません


ここは現在の宜野湾市真志喜にある黄金宮です。黄金庭とよばれることもあります。名前は黄金ですが、それらしい気配は何もありません。後に王となる前の察度(さっと)が住んでいたといわれている場所です。察度がどういう人物か、主にWikipediaを参考にしてご説明します。

1321〜1395/11/17、琉球の三国統一以前で、初代中山王を名乗りました。伝承では、父親の浦添間切謝名の奥間大親(おくま うふや)と伝説上の天女を母親として生まれました。生まれた家はたいへん貧しかったのですが、当時、強勢を誇っていた勝連按司の娘を娶ったことにより家運を起こしました。中山南北二山(南部の南山、北部の北山)との軋轢が甚だしい中、牧港にて日本の商船より鉄塊を買い取り、農民に農具を与えて農民に助けたことから、浦添按司として人望を集めました。当時、中山を治めていた 英祖王統の西威崩御後、その信望の厚さから推され、1350年に中山王となったといわれています。なお、王になる前は、謝名(じゃな)ムイと呼ばれていました。



なお、黄金宮については、現地の案内板を読んでいただいた方が分かりやすので、一部、上記のご説明と重複しますが、原文のとおりご紹介します。現地の案内板は老朽化して、文字が読めないところがありました。

黄金庭の由来
天女の子と言われる察度は、ある日、勝連按司(かつれんあじ)の娘が婿選びをしているのを聞き、勝連に行き「娘さんを嫁に下さい」と頼みました。按司とその家来は大笑いし追い返そうとしました。その時、物陰から若者を見ていた娘は「この若者はただ者ではありません。結婚させてください。」と頼みました。娘を信頼していた按司は二人の結婚を許しました。二人は大謝名にある若者の家へと向かいました。その家の垣根は壊れ、雨漏りがしていました。しかし、よごれたカマドをよく見ると黄金で作られていました。不思議に思って尋ねると、察度の畑に沢山有ることが解り、二人は黄金を拾って貯えました。そしてこの地に楼閣を造り、金宮と名付けました。当時、牧港には日本の船も出入りしていたので察度は鉄を買い入れ、それを農民に与えて農具を買い入れました。察度はやがて人々の信望を集め、浦添の按司となり、中山王(ちゅうざんおう)となりました。琉球王朝と中国明朝との貿易を始めたのも察度です。人々は彼のすばらしさを讃え、この地を聖地とし現在まで篤く信仰してきました。ところで、戦前の黄金庭は石門のある囲まれた場所でしたが、まだまだ謎も多く、今後の調査が待たれています。
大謝名獅子舞保存会
宜野湾市教育委員会

これは、『中山世鑑(ちゅうざんせいかん―琉球王国が編纂した初めての正史)』に書かれているものですが、母親が天女というだけで伝説、神話の類であることが分かります。また、沖縄では金は産出していませんので、そのことだけを見ても、この話には、真実にもとづくものではありません。常人ではなく、非凡な運命のもとに貴種として生まれたと強調され、神格化されて伝わっているものでしょう。



祠のロックを開け内部を撮影させていただきました 黄金宮全景
敷地内に御嶽がありました この標識で右折


地図をご覧になる方はコチラから ⇒黄金宮  

現地の案内図は、



  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo