幸地グスクは、西原町の西部、幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上にあり、首里城と中城グスクを結ぶ中頭方東海道沿いにあります。この丘陵は南北に長く、沖縄本島の東寄りにありますが、この峰が分水嶺になっています。沖縄の城には珍しく、石垣や石塁が見られないので、土でできたグスクでしょう。
「沖縄の名城を歩く:上里隆史共著」によると、このグスクは、首里城と中城グスクを結ぶ交通の要衝に築かれたということが重要で、城主は幸地按司(注1)といわれております。グスクの一番高いところは、標高115メートルあるので、遠くから来る敵の軍勢を見通すことができ、格好の物見台の役割を果たしていたそうです。郭の築年は15世紀前半ではないかといわれています。
(注1)幸地按司…伝聞だが、沖縄に実在した最初の王統を築いた英祖(英祖王統)の次男の系統である今帰仁王子の2代目の分家が、幸地グスクを築いて名乗ったとされる。 なお、今帰仁王子の2代目の姉(or妹)は、三山を統一した尚巴志に嫁いだ。
今までと重複する説明がありますが、入口の案内板には、次のとおり記されています。
史跡 幸地(こうち)グスク
幸地グスク について『遺老説伝 (いろうせつでん)』に「幸地グスクの城主は幸地熱田子 (こうちあったし)と呼ばれ、腕力も強く人々から恐れられていた。幸地熱田子は隣(となり)の津記武多按司 (ちきんたあじ)といさかいを起こし、その一族を滅ぼした。訃報を聞いた今帰仁按司 (なきじんあじ)が仇討ちにおしかけたが、幸地熱田子の策謀にはまり、殺された。その後、今帰仁按司の息子四人が兵を挙げ、ついに幸地熱田子を滅ぼした」と記されている。
幸地グスクがある丘陵(標高100メートル)は南北に長く、本島の東よりにある。この峰が分水嶺で、南方は首里方面へ、北方は中城方面につながる。グスク内の最高地点に祠(ほこら)が建てられているが、かつては周辺を観察するための櫓台 (やぐらだい)と考えられる。その北東下は30メートル×30メートルほどの広さを持った曲輪(くるわ)となっている。この曲輪の北よりには井戸があり、居住地化された場所であろう。
このグスクの注目すべき点は、峰の上を通る「峰道 」がグスク内を通過することにある。一種の関所 的機能を持ち、戦時には道路を封鎖する目的で造られたと考える。幸地グスクは15世紀前半にでき、その後数十年間グスクとして、あるいは関所として、また戦乱期後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性がある。
平成18年3月 西原町教育委員会
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