勝連(かつれん)城跡





勝連城は、13〜14世紀の築城と言われています。琉球王朝が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利(あまわり)の居城でした。一の曲輪(くるわ)からは、北は金武(きん)湾を囲む北部の山々や うるま市の離島を望むことができ、中城湾から南は知念半島や久高島、護佐丸の居城であった中城(なかぐすく)城跡が一望できる景勝地です。勝連城跡は、平成12年に『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の一つとして、世界遺産に登録されました(travel.jpより)。近年、来訪者も増加し、平成25年には年間約17万5千人の観光客が訪れています。 上の写真は、私が撮ったものよりキレイでしたので、うるま市のHPからお借りしました。

城の構造は五つの郭からなっており、一番高い一の郭から階段状に低くなっております。東にある郭は、再び高くなった丘陵を囲むような構造になっています。このため、遠くから城を眺めると船の形にも見えるそうです。



 
 
 
 
 


城主であった阿麻和利については、うるま市のHPに次のように紹介されています。
「阿麻和利は農民出身で、勝連の麒麟児として民衆の人気を集めていました。時の勝連按司の悪政に苦しんだ民衆が、阿麻和利を先頭に勝連按司を打倒し、阿麻和利が勝連按司となります。若くして勝連按司となった阿麻和利は人々から慕われ、海外貿易によってますます力をつけました。その存在は、首里王府にとって、王権を脅かすほどの脅威であったため、時の琉球国王・尚泰久(しょうたいきゅう)は、自分の娘である百十踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせます。しかし、1458年に起きた「護佐丸・阿麻和利の乱」で護佐丸を倒し、その後王府打倒へ動き出した阿麻和利でしたが、その動きを妻である百十踏揚に知れることとなり、逆に首里軍に滅ぼされてしまいました。」

阿麻和利は首里王府への反逆者として沖縄の正史「中山世艦」とされていますが、しかし、おもろさうし(琉球の歌謡集)には阿麻和利をたたえる歌が多く残されており、本当は、勝連を発展させ、真に領民に慕われた民草の王であると、近年、再評価されています。なお、阿麻和利は、幼名を「加那(カナー)」といい、これは当時の琉球においてはごく一般的な名前で、本土でいう「太郎」的なものだそうです。阿麻和利と言われた由来は、天降り(あまおり)、つまり天から降りてきたという意味で、民衆から慕われていたことが想像されると、HP「勝連の星 阿麻和利」には記されています。



 

左の写真は「ミートゥガー」です。縁結びの泉と言われ、男女がひそかに逢瀬を楽しむ場所だったそうです。女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みのための外出は許可されたとか。
一方で「この泉のそばで恋物語をするな」という言い伝えもあります。ここで結ばれた男女が別れると、どちらかが不幸に見舞われると信じられていたからです。泉は命の源であり、聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれません。



《追記》
3〜4世紀のローマ帝国のコインや17世紀のオスマン帝国時代のものとみられるコインが勝連城跡で出土したと、うるま市教育委員会が平成28年9月26日発表しました。勝連城はアジアとの交易で14〜15世紀に栄えたとされることから、当時の海外との交流を示す貴重な発見と言えるでしょう。

コインの分析調査を行った考古学など複数の専門家によると、中世から近世初期の遺跡から同時代のコインが出土するのは国内で初めてで、コインにはローマ文字やアラビア文字、皇帝・コンスタンティウス1世の肖像などがエックス線検査で確認されました。ローマ帝国時代の銅貨とみられるのは4枚で、大きさは直径1.6〜2センチ、厚さ0.1〜0.17センチ、重さ1.5〜3.6グラム。 ただ、17世紀のオスマン帝国のコインは、勝連城が廃城になってから造られたものなので、どうして持ち込まれたのか、謎に包まれています(琉球新報、毎日Webから抜粋、写真は産経フォトよりお借りしました)。

 

地図をご覧になる方はコチラから ⇒勝連城跡 広い駐車場と休憩所、WCがあります。売店は小さいですが、うるま市の特産品も扱っています。

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