「艦砲ぬ喰ぇー残さー(かんぽうぬくぇーぬくさー)」の歌碑


艦砲ぬ喰ぇー残さーの碑


石碑

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」とは、 沖縄戦で家族を失った悲しみを歌った沖縄民謡です。この歌碑は、作詞・作曲した比嘉恒敏さんの出身地である読谷村楚辺(そべ)の地に、平成25年6月に完成しました。

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の意味をウチナンチュの方に聞いたら、「艦砲射撃の食い残し」という意味だと教えてくれました。アメリカ軍の猛烈な爆撃にさらされ、激しい戦火から生き残った人々のことを、艦砲射撃が喰い残したもの、と表現したのです。 この歌の繰り返しフレーズは、「艦砲射撃から かろうじて生き残った あなたもわたしも おまえも俺も 艦砲の喰い残し」と歌っているのです。

この歌を作った比嘉恒敏さんは、昭和19年、学童疎開船「対馬丸」の戦禍で長男と父を失いました。翌年3月、出稼ぎ先の大阪で大空襲に遭い、妻と次男が目の前で防空壕ごと押しつぶされました。


その後、比嘉さんは再婚し7人の子宝に恵まれ、家族で「でいご座」の名で芸能活動をしていましたが、 昭和48年、那覇市での舞台を終え、車で読谷の自宅まで帰る途中、飲酒運転の米兵に激突され、妻シゲさんは即死、恒敏さんは、娘達の名を呼びながら4日後に息を引き取ったといいます。享年56歳でした。

歌碑の横にはボタンがあり、ボタンを押すと歌が流れます。 歌は重たくて辛い歴史を感じさせます。 歌詞は次のとおりです。島言葉ですが、大まかな意味は ご理解いただけるでしょう。現地の石碑には、上の段に歌詞が、下の基壇に訳詞があります。

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」 作詞・作曲 比嘉恒敏
1.若さる時ね 戦争ぬ世
  若さる花ん 咲ちゆーさん
  家ん元祖ん 親兄弟ん
  艦砲射撃ぬ 的になてぃ
  着るむん喰えむん むるねえらん
  スーティーチャー 喰でぃ 暮ちゃんや
  ※ うんじゅん 我んにん 汝ん 我んにん
   艦砲ぬ喰ぇー残くさー

(注:「スーティー」とはソテツのこと、「うんじゅん 我んにん 汝ん 我んにん」は、 「あなたも 私も お前も 俺も」 という島言葉)

  2.神ん仏ん たゆららん
  畑やカナアミ 銭ならん
  家小や風ぬ うっ飛ばち
  戦果かたみてぃ すびかってぃ
  うっちぇーひっちぇー むたばってぃ
  肝や誠どぅ やたしがや
    
3.泥ぬ中から 立ち上がてぃ
  家内むとぅみぃてぃ 妻とぅみぃてぃ
  産子ん生まりてぃ 毎年産し
  次男三男 ちんなんびー
  哀りぬ中にん 童ん達が
  笑い声聞ち 肝とめぇてぃ
    
4.平和なてぃから 幾年か
  子ぬ達ん まぎさなてぃうしが
  射いやんらったる ヤマシシぬ
  我が子 想ゆるぐぅとに
  潮水又とぅ んでぃ思れ
  夜ぬゆながた 目くふぁゆさ
    
5.我親喰ゎ たる あの戦争
  我島喰ゎ たる あの艦砲
  生りてぃ変わてぃん 忘らりゆみ
  誰があの様  強いいんじゃちゃら
  恨でん悔でん 飽きじゃらん
  子孫末代 遺言さな
     ※
歌をお聞きになる方は ⇒ コチラから。深夜の場合は音量にご注意ください。

なお、映像で歌っているのは、この曲を作った比嘉さんの4人の娘さんでつくるコーラスユニット「でいご娘」です。

歌碑のある場所は、美しいビーチで知られるユーバンタ浜(下の写真:右)に面しています。



歌碑 歌碑

案内碑 ユーバンタ浜


地図をご覧になる方はコチラから ⇒「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑  近くまで行けば道標がありますが、県道からの入り口が分かりにくいので、必ず地図をご持参ください。楚辺浄化センターのすぐ前にあります。


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