金満墓(かにまんばか)


金満墓
崖地を掘抜いて墓口を塞いだ形式の金満墓


金満(かにまん)とは、後の中山王となる察度(さっと)の義母弟(注)です。察度の父、奥間大親の出自は、国頭間切奥間村(現 国頭村奥間)と言われています。大親(うふや)とは集落の草分けの家、根屋あるいは大家のことを指し、その家の主が大親です。従って、奥間大親は、『中山世譜』の記述にあるような貧しい百姓ではなかったと思われています。その奥間の大親がなぜ、遠く離れた真志喜集落(旧謝名村)に移って来たのかは謎です。なお、以下、『中山世譜』(1701年)の記述は、原田禹雄(はらだのぶお)訳注「蔡鐸本・中山世譜」榕樹書林から引用します。

天女に去られた奥間大親は後妻を迎え、泰期(たいき・たいち)という男児をもうけました。伝承では奥間のかんじゃやー(鍛冶屋)といい、金満(かにまん)と呼ばれた人物で、鍛冶屋の始祖だと伝わっています。そこから鍛冶工のことを金満と呼ぶようになったといいます。
鉄や金銀は、沖縄では産出されないので貴重な資源でした。察度が居を構えた黄金宮(大謝名村)は牧港の入口にあり、『中山世譜』(1701年)にある挿話、「牧那渡へ行って、その鉄を買収した。」とは、地の利を生かして日本から運ばれてくる鉄や金銀を買い占め、莫大な資産を蓄積したと云うことでしょう。
それと同時に、察度は義母弟・泰期(金満)と協力しながら蓄えた鉄を、鍛冶工に与えて農具を造らせ、農業の振興に力を注ぎ、農民の暮らしを支え、民の人望を得たようです。泰期(金満)は農業の神様として祀られ、沖縄の各地には金満宮や金満御嶽、金満神社などの拝所が点在しています。

(注)実際には義母弟ではなく、読谷山宇座に勢力をはる豪族で、察度の命を受け進貢使として明国に渡った際、王に拝謁したり、要人と会うためには、王の弟という肩書の方が都合がいいので、察度王の弟に扮していたという説もあリます。

史実としての泰期は1372年に中山王・察度の命を受けて、初の進貢使として明に渡り、中国との交易時代を開いた先駆者だそうです。明との交易によって莫大な財を築いた泰期は、商売の神様とも言われ、読谷村の残波岬には、中国福建省の方向を指した泰期の銅像が建っています。台座には、次のとおり記されています。

モニュメント建立完成記念碑 1993年度、本会設立20周年記念事業として本モニュメントを企画、諸般の事情により台座までを建立し泰期像は時機を待つこととした。
それから15年、本会設立35周年と本村制100周年の大きな節目に泰期像を建立。並外れた勇気と使命感、統率力、国際的ビジネス感覚で大交易時代を先導した泰期を「商売の神様」として象徴化し、商売繁盛を期してここに泰期像モニュメントの完成を記す。
2008年11月2日 読谷村商工会



泰期像
残波岬に立つ泰期像


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 金満墓 下の地図の行き止まりを左へ。雑草の生い茂る道を進むと住宅の裏地にあります。

現地の案内図は、

大謝名の散策地図


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