嘉数(かかず)高台公園


嘉数高台公園は、その昔、嘉数高地といわれ、沖縄戦における最激戦地の一つで、日米両軍の戦死者はもちろん、多くの地域住民が戦闘に巻き込まれ犠牲になりました。
公園内には地球儀をイメージした展望台があり、天気がよければ、北は普天間基地から残波岬、西は東シナ海から慶良間諸島などが見え、宜野湾市の中でも高い場所にあります。



弾痕の塀

《弾痕の塀》

戦前の嘉数は、家屋敷や道路が碁盤状に整備され、田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、日本軍が駐屯し陣地構築を始めると、軍靴の音が響くようになりました。
米軍上陸後の嘉数は、日米両軍の主力が激しい攻防戦を繰り広げた場所となり、住民はもとより、住みなれた家屋敷なども大きな被害を受けました。戦場となった嘉数では、日米両軍の銃弾、砲弾が雨あられのごとく降り注ぎました。この弾痕の塀は、それを物語るものです(案内板より)。
この塀は、嘉数集落の屋敷跡に残されていた塀を、ここに運んできたもので、写真にある穴は弾痕の痕です。

   
陣地壕

《陣地壕》

嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地を中心とした周辺地域にいくつもの陣地壕を築きました。
陣地壕の構築は1944年(昭和19年)の夏頃から開始されたようで、朝から夕方までの作業が毎日続けられました。兵士だけでなく嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くの人々が かり出されました。
陣地壕は石灰岩をくりぬいてコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡もあります。嘉数高地には日本軍の主陣地が置かれたために、このような陣地壕が無数に構築されました(案内板より)。

   
トーチカ

《トーチカ》

トーチカとは、ロシア語で「点」や「拠点」を意味する軍事用語で、防御の中心となる陣地のことです。
このトーチカは鉄筋コンクリート製で厚さは最大1メートルあり、内部は2メートル四方で大人が3名ほど入れる広さです。北側の比屋良川(ひやらがわ)に向けて射撃するための銃眼(じゅうがん)が2か所あり、そこから小銃や機関銃などを出して米軍を攻撃しました。
トーチカには弾痕が無数にあり、鉄筋がむき出しになるほど破壊され、激しい戦闘を物語っています(案内板より)。

 
京都の塔

《京都の塔》

沖縄戦の時、全国から将兵がやってきて戦いました。県内にはすべての都道府県の慰霊碑が建立されていますが、そのほとんどが最後を遂げた南部に集中しています。"京都の塔"は、京都出身兵が多く配置された中部の嘉数高地に建立されました。京都出身の兵士は、2,536名が沖縄で戦死しています。
多くの碑文は英霊遺訓をたたえる碑文となっていますが、京都の塔の碑文には、非戦闘員である沖縄住民を戦闘に巻き込んでしまったことに対する反省の念、そのようなことがあったとしても友好と平和の絆が結べるように、二度と戦争を繰り返してはならない、と刻まれています。

 
嘉数の塔

《嘉数の塔》

沖縄戦のとき、嘉数高台をめぐって昭和20年4月8日(7日)から16日間に及ぶ戦いがありました。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘の1つとしても知られるほどで、日本軍は頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれたそうです。
この塔は嘉数の住民が建てた碑で、碑文には「この地で米軍を迎え撃つ日本軍は、肉弾攻撃をし玉砕した。その多くが京都出身である。このとき、嘉数の人々は京都部隊を援助、輸送等の任務につき、外地に出征した人もあわせ343人の犠牲者を出した。これは区民の過半数である。それは、本土防衛の使命感に殉じた区民の誠意によるものであり、永久に英勲を讃え芳名を塔下に埋蔵する」とあります。(Wikipediaなどより)。

 
普天間基地

《普天間基地》

世界一危険といわれている米海兵隊の航空基地、2,800メートルの滑走路を持ち、面積480万uの軍事施設です。宜野湾市の24.4%の面積を占め、ちょうど中央に位置するため宜野湾の町は、基地を囲むように住宅などが密集しています。ヘリは訓練のため不定期なコースを飛ぶため、周辺の騒音被害はすさまじく、この日もオスプレイが数機、駐機していました(写真は展望台から撮影)。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒嘉数高台公園 主要道路に接していませんので、分かりにくい場所です。ナビをセットするときは、 沖縄県宜野湾市嘉数1丁目5で。

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