護佐丸(ごさまる)の墓


護佐丸の墓

護佐丸は15世紀に琉球で活躍した按司(注1)です。Wikipedia風にご紹介すると、出身は恩納村。大和名(注2)は中城按司 護佐丸 盛春(なかぐすくあじ ごさまる せいしゅん)、唐名(注3)は毛国鼎(もうこくてい)。ただし何れも後世に付けられたもので、その当時、何と呼ばれていたのか不明です。ただし、琉球史研究家の上里隆史氏によれば、『毛姓家譜』には、護佐丸について「童名(わらびなー)・真牛(もうし)」とあり、「読谷山の按司、真牛」や「中城の按司、真牛」と呼ばれていたことは間違いない。護佐丸という名前自体、「(王を)護り補佐する」という、彼が忠臣であることを示す意味合いで付けられた意図的な感じがします、と言っておられます。 護佐丸は、第一尚氏の尚泰久王に仕えた王統建国の功臣であることは、後述しますが、子孫が三司官など最高位の官職に取り入れられたことを見ても、護佐丸が忠臣であったことは間違いないでしょう。

次に、護佐丸は阿麻和利(あまわり)に攻められ、1458年に自害したと伝えられていますので、そのあらましをご紹介しましょう。勝連城の按司、阿麻和利が当時の国王であった尚泰久王に「護佐丸に謀反(裏切り)の疑いあり」と吹聴したことから事の発端が始まったことになっています。最初はこのことを信じていなかった尚泰久王でしたが、家臣に中城グスクを偵察させたところ、武具を揃え、兵の訓練をし、軍備万全の状態であったため、それが「謀反の準備」という風にとらえられてしまいました。そして、ついに尚泰久王は阿麻和利に対し、「護佐丸討伐」を命じてしまいます。護佐丸が強化していた軍備は、本来、勝連半島で勢力を高めていた阿麻和利の脅威から首里王府を防衛するためのものだったのですが、残念ながら、疑念が晴れることはありませんでした。

中秋の宴の最中に阿麻和利が率いる王府軍が攻めてきました。慌てた家臣たちは護佐丸に応戦することを願い出ましたが、攻めてきた軍隊の中に王府の旗を確認すると「王に逆らうことはできない」として、応戦することはしなかったそうです。護佐丸は王への忠義を尽くし、謀反の心もなかったので妻子とともに自害したとのことです。

しかし、混乱の中、護佐丸の三男・盛親(もりちか)だけは乳母とともに中城グスクを脱出することに成功し、乳母の故郷である糸満へと逃れることができました。その後、盛親は第二尚氏の尚円王に登用されて豊見城間切の総地頭職に任ぜられ、豊見城親方盛親を名乗りました。その子孫は大宗家(本家)である毛氏豊見城殿内を筆頭に五大姓(五大名門)の一つとして、その後、門中からは三司官をはじめ、首里王府の主要な役職に多数が就き、琉球屈指の名門の一つとして栄えました。 沖縄大辞典によれば 現在、護佐丸の子孫は、沖縄県に10万人おられるとか。沖縄県の総人口が140万人ですから14人に一人が護佐丸の子孫ということになります。

その護佐丸の墓が、中城城から数百メートル離れた台グスクの南にあります。現存する亀甲墓の中では、最も古いものの一つといわれています。しかし、護佐丸という名前ですが、琉球っぽくない大和人みたいな名ですね。また、HPに5月30日は「護佐丸の日」とありました。ゴミゼロの日でもありますが…。この墓には、初代護佐丸盛春と、二代目の盛親から、盛庸、盛章、盛続、盛良と続き、七代目の盛常までの遺骨が納められており、八代目以降は那覇市識名の墓に納めらているそうです(以上、護佐丸歴史資料図書館ティーダブログ、上里隆史著「目からウロコの琉球史」、中城村ごさまる通信などを参考に作成しました)。

(注1)按司(あじ・あんじ)…琉球の古代共同体の首長。地域の支配者。王族のうち、王子の次に位置する者や王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも用いた。
(注2)大和名…琉球士族の大和向けの名前。
(注3)唐名…琉球士族の中国向けの名前。このように琉球士族は、童名、大和名、唐名の三つの名前を持つ。

下の写真:左は墓の入口、この階段を登ってゆく。右の石碑には、写真では読みにくいので補注しますと「毛国鼎(もうこくてい)護佐丸之墓」と刻まれています。



墓の入口 墓前の石碑



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 護佐丸の墓 中城グスクの駐車場に車を置いて歩きます。


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